地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

模擬原爆と福島⑤~模擬原爆着弾情報から②

 模擬原爆にかかわってこの辺を散策していて気になったのが、先に「目標から逸れて、渡利の水沼に着弾する」という表現に失礼がなかったかということ。
 これは、アメリカ側の視点に立てばその通りだが、「渡利の水沼に着弾する」という部分に、市街地を外れてという意識が働いたとすれば、それは違う。半沢氏の「フィールドワーク地図」の情報を組み合わせたのはその意味を込めていたことを確認しておきたい。
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 渡利を散策してのイメージで整理すると、現在では、渡利地区の市街地は平地に広がっているが、元々の渡利地区の中心地は、山沿いの一本の道筋に沿って開けていたということだろうか。そして、当時は、やや広さが必要になる学校をその道筋の北側に建てたという状況だろうか。
 その学校がここだ。現在は学習センター、運動場かな。小学校がここから現在地に移転するのは昭和28年、中学校の移転が昭和50年ということだ。
 当時の渡利地区の方々の感覚では、ここから続く一本道が、渡利の町に続くのだが、その町のわずか数十m西に逸れた地点に5tの超大型爆弾が着弾したということだろうか。
 その割に、渡利地区の客観的な被害情報はある程度確認できるのだが、生の声が伴った情報が少ないので、その緊迫感が伝わらないと感じている。
 確かに、情報を確認していくと、水田或いは沼地に着弾したということと着弾した角度のかかわりで、「充分な殺傷」という点では軽減される条件下であったということはあるらしい。
 当時の新聞記事の中で、被害の小ささを示すのに、「『ナーニ、俺達は泥を被っただけですよ』と至って元気だった。」と表現するところがあるが、もし、この5t爆弾が着弾してさく裂した位置が建造物でなくとも、単に道路であったとしても、その被った泥というところは、瓦礫ということになるわけで、方向によってはその爆風でも、この方たちは即死するところ、ただ単に運がよかっただけということに過ぎないと思われる。

 実際の生死にかかわる被害は、さく裂した爆弾の破片が直接当たった方1名。今回確認作業をする中で、その被災された方にかかわる生の声に整理された記事が東京に向けて発信されているのを知った。原発事故とのかかわりらしい。「弟奪った「模擬原爆」に原発事故重ね 大事なこと知らされねぇ」と題した【東京新聞(2012/7/18)】という記事の中に、以下のようなその姉の証言部分があった。
 自宅から数百メートルの田で弟が命を落としたのは、一九四五年七月二十日の朝だった。
 「姉ちゃん、俺が行ぐから」。雲がたれ込め、今にも雨が降りだしそうな空模様。五つ年下の隆夫さんが蓑(みの)と笠(かさ)を身にまとって田の草取りに出掛けた。見送ったミチさんが弟の言葉を聞いた最後となった。「なぜか寂しげな目をしてたな」
 落雷のような炸裂(さくれつ)音と地響きがした。米軍の爆撃機が投下した一発の火薬爆弾。いろりの下座に腰掛けて地下足袋を履こうとしていたミチさんは、敷居まで吹き飛ばされた。母と二人で近くの山に逃げると、弟が除草をしていた田から黒煙が上がっていた。
 「かあちゃん、隆夫やられた」。山を駆け降りたミチさん。爆風で水がなくなった底土の上に、泥まみれで腹部をえぐられた遺体を見つけた。あまりの衝撃に泣くことすらできなかった。
 この爆弾は、人類初の原爆投下を成功させるために米軍が訓練として投下した模擬原爆だった。ただ、模擬原爆の存在や被害は、国民に長く知られることはなかった。
 隆夫さんの命を奪った爆弾の破片は、近くの瑞龍寺に保管されている。見つけたのは父親。爆死から十数年後、「息子の供養に」と寺に預けた。
 戦後、農業や看護の仕事をして嫁がずに家計を支えてきたミチさん。「隆夫をはじめ多くの人が亡くなったのに、戦時中のラジオは『わが方の損害軽微なり』と流してた」。そんな憤りの矛先は今、東電に向く。

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by shingen1948 | 2012-11-01 06:59 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)