「平成24年度梁川城現地説明会」に出かけた時のよそみ②
2012年 10月 25日
この舟橋北遺跡の調査は、梁川駅前から西に市道が伸びるように建設されることに伴う調査だったので、消滅しているのは分かっている事。
ここでの調査の成果としては、以下の三点が整理される。
① 奈良時代以前の遺跡遺物
② 奈良時代以降平安時代前半までの集落跡
③ 鎌倉時代前期の屋敷跡
自分として興味深かったのは、鎌倉時代の屋敷跡とされるところから見つかった木組みの井戸跡だろうか。
しかし、話題の中心は、奈良時代以降平安時代前半までの集落跡だろうか。
その建物跡の中に、住居跡と共に、その並び方の計画性などから役所に関わる倉的なものが想像されるものも含まれていた。
「福島民報」の記事では、その建物について「当時、静戸郷(しずりべのごう)と呼ばれた周辺地域の役所か、分庁舎のような機能を果たしていたと考えられるという。」といういい方をしていた。そのことは、「舟橋北遺跡現地説明会④」で整理している。
http://kazenoshin.exblog.jp/9182843/
もっと注目されたのは、銘のある蓋だった。文字が彫られた土器は奈良時代の土師(はじ)器のふたで、両面黒塗りだ。そこに表に鋭利な道具で引っかいたように「真刀自」と彫られている。
刻まれた「真刀自(まとじ)」の文字は位が高い女性の名前を示しているとのことだ。
「刀自」は、年配の女性の敬称で、家事を取り仕切る「戸主(とぬし)」が語源という説があるという。ここに、「真」という力を持った女性か、位の高い人物の妻が、この地に住んでいたと想像できるということのようだった。
その遺物は、今回の発掘地点の中心部にあたる住居跡から発掘したようで、この住居跡は、平安時代の建物跡と一部重なっているが、奈良時代の建物跡とされた。そのことについては、「舟橋北遺跡現地説明会②」として、整理している。
http://kazenoshin.exblog.jp/9174078/
その後、この「真刀自(まとじ)」にかかわって、地方紙「福島民友(2009/11/4)に、鈴木氏が、寄稿文を寄せていた。「真刀自」は、小倉郷に「真祢麻呂」という方がいるが、その方の夫人ではないかということだった。
刀自は夫人の尊称なので、「真○○夫人」ということになるわけだが、それが真祢麻呂夫人ということではないかということだ。これらのことは、「船橋北遺跡現地説明会の後で②~「真刀自」の刻字」として整理した。
http://kazenoshin.exblog.jp/9218563/
この舟橋北遺跡の南には舟橋遺蹟があり、道を伸ばしてつないだ方向には東土橋遺跡がある。いずれも平安から近世の遺跡と考えられているらしい。この辺りから南側にかけても遺跡の宝庫らしいが、こちらは、現在の便利さを求める開発を優先させて折り合いをつけたようだ。