大木戸付近~旧道諸説④
2012年 09月 30日
例えば、石那坂の戦いで敗死した泰衡の郎従佐藤基治等一族18名の首級がさらされたとされる「阿津賀志山の山頂」というのは、国見峠のはずで、それが「経が岡」ではないかというのを聞いた事がある。この経が岡という地点は、国見峠に向かう奥州街道だとされる長坂跡の奥にある。長坂は、古来より奥州街道における要衝の地にあり、急な坂道であるとして有名な国見峠の難所だったという。その雰囲気を今に残している。
確か、晒すのは見せしめの意図があるはずで、街道筋でその一番高い所が国見峠となるはず。その地点が「経が岡」であり、「阿津賀志山の山頂」という言い方とも調和するというような感じで捉えているのかな。
先に、そんな観点で、「阿津賀志山⑤」で整理した事がある。
http://kazenoshin.exblog.jp/7202945/
もっとも、「福島の伊達氏」(津島亮資著)によれば、同じ「吾妻鏡」の同年10月2日の項には「囚人佐藤庄司らが厚免され、本所に帰された」という記載があるともいうのだが……。
国見峠に向かう長坂跡が、奥州街道の道筋であれば、芭蕉等があるいた道筋という観点での興味が湧く。 『曽良旅日記』には、「桑折トかいたの間ニ伊達ノ木戸ノ場所有(国見峠ト云山有)」と記される。
しかし、実際に歩いてみると、明らかとされる奥州街道の道筋のどの地点からどのような道筋をたどれば、この切り取られた道筋につながるのかが分からない。
その観点から、道筋の疑問を整理したのが、「芭蕉の歩いた道と阿津賀志山防塁」だ。
http://kazenoshin.exblog.jp/7604153/
更には、有力な説の一つに、東山道それ自体が阿津賀志山の山際を通っていたというのがあるはず。具体的には、国見町郷土史研究会の「郷土の研究」の地図が描く各道筋。そして、藤原方の本営。
この回の現地説明会では、この高台を主要な司令部の一つの候補とするが、この奥に藤原方の本営をイメージする図もみたことがある。
そんな別説を整理しておいたのが、「阿津賀志山防塁」現地説明会 ⑤
http://kazenoshin.exblog.jp/8327088/
地元には、そういう考えもあるかとさらりと聞き流せない方もいらっしゃるだろうなと想像する。