飯坂への道~旧道諸説
2012年 09月 26日
ふと、その芭蕉が追う義経弁慶などがここに立ち寄ったとするならば、どの道筋を想像する事になるのかなと思う。
岩手県平泉にいた源義経が源平合戦に旗揚げした際に継信と忠信が同行するのだが、その継信と忠信が平泉に向かったとするならば其の道筋、源義経が立ち寄ったものだとするならばその道筋。そして、義経と弁慶が、京都を離れ奥州藤原へ下向の途中、医王寺に立ち寄り、二人の遺髪を埋め、追悼法要を営んだとするならば、その道筋だ。
西行が、佐藤氏を訪ねたと想像するならば、その道筋ということでもある。
そんな視点で江代正一氏の「古代道」の資料を見てみた。
この資料に描かれる道筋は、小字名の資料等に描かれるので、地図で小字を確認して道筋を想像し、現地を歩いてみた勘で修正を繰り返して、その道筋を想像してみる。
すると、少なくとも森合の一杯森からは、飯坂古道馬道で歩いてみた道筋に近い道筋の想像らしい事が分かる。
飯坂古道馬道は、佐藤静雄氏の「飯坂道の今昔」を参考に2006年あたりから歩いてみていたところだが、その馬道の森合一杯森付近から字矢車の地点辺りまでが、微妙なずれはあるものの、江代正一氏「古代道」がいう東山道(後期駅路)と重なっているようなのだ。
江代正一氏「古代道」では、その地点から飯坂までが飯坂古道とするが、いずれにしても、道筋としては「飯坂道の今昔」の飯坂古道馬道と重なっている。
ここが、その江代正一氏「古代道」が、飯坂古道と東山道(後期駅路)の分岐点とする字矢車付近だ。
東山道を想像する根拠は知らないが、江代氏は、ここから飯坂古道は真っ直ぐ飯坂めがけて北に直進するが、東山道(後期駅路)は、中荒田・吉原・地蔵の小字界を通る道筋に沿って東湯野村を目ざすとする。
ただ、この辺りはそれ以前の耕地改善に加え、高速道で分断されて道筋の想像は難しい。
地図上に表現してみる。
東山道(後期駅路)とされる道筋の方は、方向としては細実線で示した方向で、字界を忠実にたどれば、太実線方向に向かうと想像されるらしい。
義経と弁慶が医王寺に向かったとするならば、あるいは、西行が佐藤氏を訪ねるとすれば、地元の方々は、その道筋を江代正一氏の東山道(後期駅路)とする道と佐藤静雄氏の飯坂古道とする道の重なった道筋をここ字矢車までやってきて、ここから東山道(後期駅路)と分かれて、飯坂古道に沿って飯坂に向かって北進したのであろうと想像をするのだろうか。
個人的には、この字矢車と字天王下の字界から天王社に向かう道筋も気になっている。何の根拠もないのだが、この辺を歩いた感じでは、この天王社を中心とした放射状に多くの地点を結んでいる感じがするのだが、それだけかと言われればそれまでではある。