2012夏の頃~「今から思えば」の資料(つぶねた)を拾う④
2012年 08月 17日
その中の一つが、「東電、テレビ会議映像公開」にかかわる県内の状況とからませる記事。今まで、見出しで言うと「県民の安全配慮なし 東電が会議映像を公開」と、「「健康被害ない」と広報を 爆発直後、福島県が東電に要請か」とのことにかかわる二つの情報だったが、新たに、緊急事態を「浪江に伝えたか」ということにかかわる記事が出た。
浪江町への通報をめぐっては、東電は社内の事故調査委員会が「(昨年3月)13日に社員が役場の移転先の津島支所を訪ね説明した」と報告。町は「誰も来ていない」と反論し、真っ向から対立していた問題。
正直なところ、事実はどうであれ、なかったことを証明しなければならない浪江町が不利だろうと思っていたところがある。
それが、「河北新報社の取材に東電広報部は「非常に混乱した状況で対応に追われていた。浪江町を訪問できなかったことは申し訳なく、反省している」と答えた。」とある。
各報道のこの問題にかかわる今までの報道では、7月19日の東電が4度目の説明に訪れたところまでだった。
そこでは、東電は当時2名の社員が連絡に行ったということだった。
そこでは、Aさんは震災の二日後(水素爆発の翌日)の3月13日と14日に浪江町の津島支所へ行き、15日からは浪江町にいたという証言とのことだったはず。
町長さんには、浪江町の津島支所で、「町長はどこにいますか」と聞いて二階で町長に発電所の状況を伝えたということだった。
Bさんは津島支所で、副町長と住民生活課長、担当の課長にプレス資料で説明したということ。津島支所に行った後に、発電所に戻るように電話が入った。車を運転していて意識がもうろうとしていたのを覚えているということだった。
それが、「一部社員の避難容認 東電、緊急対応要員割かず 原発事故【河北新報(2012/8/16)】」では、東電が、職員の派遣はなかったことを認める記事になっている。
報道によると、東電が午後5時8分に、事故時の対応要員に定められていた社員以外への避難を認めたこととかかわるらしい。それで、連絡要員が確保できずに、大熊町と双葉町には連絡できたが、浪江町には連絡ができなかったということらしい。
「東電、テレビ会議映像公開」とのかかわりでは、3月12日午後11時すぎ、第1原発の吉田昌郎所長が「地域住民の皆さんの避難所へ説明に行きたいが、応え切れていない。事故対応で余裕がない」などと発言し、本店の手助けを求める場面とか。
問題点を確認すると以下のような事かな。
① 東電は、通報義務を有する浪江町に通報しなかったこと
② 報告書で、浪江町に通報したと虚偽の報告をしていること
③ 抗議を受けた東電は、2名の社員が連絡したというフィクションを構成したこと
④ 言い逃れができなくなって①について謝罪したが、②~④については触れていないこと
「一部社員の避難容認 東電、緊急対応要員割かず 原発事故【河北新報(2012/8/16)】」
東日本大震災が発生した昨年3月11日午後、東京電力福島第1原発で1、2号機の原子炉水位が確認できなくなり、原子力災害対策特別措置法15条で規定される原子力緊急事態に陥った後、東電が一部社員に敷地外への避難を認めていたことが15日、分かった。
周辺自治体への連絡役を務められる人員がいたことになるが、通報連絡協定を結ぶ福島県浪江町への職員の派遣はなかった。同町は事故後の連絡の不備を指摘しており、反発が強まりそうだ。
東電は11日午後4時45分、経済産業省原子力安全・保安院に15条通報。原発立地町として安全協定を結ぶ福島県大熊、双葉の両町は職員が直接訪れ、状況を説明した。
東電は午後5時8分、事故時の対応要員に定められていた社員以外への避難を認めた。国会が設置した事故調査委員会による東電社員へのアンケートでも、11日午後6時以降に少なくとも14人が避難したことが判明している。
東電は、避難を認めた経緯や実際に何人が帰宅したかなどの詳しい状況を明らかにしていない。河北新報社の取材に東電広報部は「非常に混乱した状況で対応に追われていた。浪江町を訪問できなかったことは申し訳なく、反省している」と答えた。
東電が現在、報道関係者に限定して公開している社内ビデオ会議の映像では、昨年3月12日午後11時すぎ、第1原発の吉田昌郎所長が「地域住民の皆さんの避難所へ説明に行きたいが、応え切れていない。事故対応で余裕がない」などと発言。本店の手助けを求める場面が記録されている。
浪江町への通報をめぐっては、東電は社内の事故調査委員会が「(昨年3月)13日に社員が役場の移転先の津島支所を訪ね説明した」と報告。町は「誰も来ていない」と反論し、対立している。