地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

福島の建築 23の3~「竹屋旅館」

 竹屋旅館が取り壊しになる事を、朝日新聞(福島版2012/5/24)が「『蔵の宿』取り壊し 震災で漆喰壁崩れ」の見出しで伝えていた。
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 この建物は、今回の震災で崩壊し、今では修復ができる左官職人はほとんどいないらしいし、費用的なこともあって、解体するのにも補修するのにもなかなか大変らしいと心配していたところだった。このことについては、「破壊された建物②~今から思えば80」として整理していた。それから、1年経ったところだ。
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 報道の中で、今までこの建物が創建されたのが明治42年(1909)と伝えられてきたが、固定資産税の関連書類で、創建は明治35年(1902)とされている事が分かったことが記される。更に、記者が過去の登記簿をたどると、土蔵はもう8年古い明治27年9月11日にすでに登記されていたことを記す。
 また、元々は生糸問屋の倉庫だったものを、大正時代に「西屋」という旅館に改造された。その後、農協の寮を経て、昭和22年(1947)「竹屋旅館」になったという経緯も示す。
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 この竹屋旅館は、「福島の建築 23」として整理していたところだ。
 そこで整理していたこととこの情報を重ねると、この整理で、大正ロマンの客室は西屋から引き継いだものではないかと想像したことが正しかった事が分かる。その旅館への改造というのが、先に整理した大正10年(1921)ということで、西屋旅館の話ということでいいようだ。なお、南と西の土蔵は、創建当時のままとのこと。

 実は、この竹屋旅館の前が気になったのは、信夫山地下工場探索で、証言集等を読んだ時、その本部がこの竹屋旅館に設置されたのではないかと感じたのが出発点だった。その旅館が記憶では西屋だったということだが曖昧だった。
 それで、この建物を整理する時に、「西屋」旅館であった経緯にこだわったが、曖昧だったのでそのことに触れなかったという経緯だ。そのこだわりとのかかわりは、「「福島と戦争」⑦」の整理で少しふれている。
 もうこの建物は消えてしまうようなので、記録としてこれともつないでおく。




 <竹屋旅館が取り壊しになる事を報じる新聞記事>
「『蔵の宿』取り壊し 震災で漆喰壁崩れ」【朝日新聞福島版(2012/5/24)】 「蔵の宿」と親しまれてきた、福島市の竹屋旅館の取り壊しが進んでいる。東日本大震災で壁が崩れるなどして廃業に追い込まれ、月内にも姿を消す。ところが最近、ある事実がわかった。1909(明治42)年と伝えられてきた建物の建築年が違っていた。
 ●建築の時期新たな発見
 旅館2代目の上竹毅さん(81)が間違いに気づいたのは、昨年暮れだ。残務整理で固定資産税の関連書類を調べると、建築は「明治35年」とあった。「廃業しなければ時間に追われていたので、わからなかっただろう」
 20部屋あった旅館は、漆喰(しっくい)の壁で仕上げられた5棟の土蔵でできていた。もとは生糸問屋の倉庫だ。大正時代に「西屋」という旅館に改造され、農協の寮を経て毅さんの両親が「竹屋」を始めたのは昭和22(1947)年だ。
 「明治42年」は99歳で亡くなった、毅さんの母で名物おかみだったノブさんが生まれた年でもある。「土蔵が造られたのはノブさんが生まれた年」と誰かに聞かされた毅さんは、ずっと信じこんでいた。
 規模の大きい2棟は2000年に国の登録有形文化財の指定を受けた。そのときの証明書も、こう記された。「年代 明治42年 登録基準 再現することが容易でない 文部大臣 大島理森」。指定のときに文化庁や市が建築時期を調べることはなかった。
 最後の営業日となったのは昨年3月11日だった。その夜、当時県議だった三春町の渡辺広迪(ひろみち)さん(66)は福島市内で身動きが取れなくなり、毅さんに「寝るだけなら」と迎えてもらった。余震が起きるたび、壁の漆喰がはがれ落ちた。
 県議を4期務めた渡辺さんは10年間、議会開会中の定宿としていた。県庁にほど近く、東邦銀行本店前という好立地。「土蔵の中なので温度変化が少なく、過ごしやすかった。年に80日は泊まっていた。最初はホテルを使っていたが、竹屋だと自分の家みたいに和めた」
 ●にぎわった昭和30年代
 旅館が華々しかったのは昭和30年代だ。新幹線や高速道路もない。県都に仕事に来る議員や役人らは日帰りで戻るなどできなかった。市内にホテルが建つと宿泊客は減った。ここ10年は宴会場としての利用が中心だったという。
 固定資産税の関連書類にあった建築時期も、実は違っていた。記者が過去の登記簿をたどると「明治27年9月11日」に土蔵は登記されていた。それ以前に建てられたことになる。
 毅さんに伝えると「もっと前からあったというのは驚きだ。土蔵の窓にはステンドグラスがはめ込まれていた。文化財指定のとき、文化庁の人が『これは外国品』と教えてくれた。明治半ばには、横浜や海外から訪れる生糸バイヤーたちにとっての社交場だったのかもしれない」。
 いつ建てられたのかわからないまま、土蔵は歴史を閉じようとしている。跡地は当面駐車場になる予定で、いずれ和風レストランの開店をめざすという。(岡本進)

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by shingen1948 | 2012-05-28 05:04 | Comments(0)