粟島信仰③~奥州街道清水宿散歩の寄り道、道草、わき道⑥
2012年 02月 05日
淡島様の福島バージョンの姿なのではないかという勝手な思いだ。単純に舟に乗っていらっしゃるということでの推測だが、この地の人々が、本当に救っていただきたい「さいで」に特化させたのではないかと思うのだ。
これは中妻のさいで地蔵様だ。中妻のさいで地蔵様だけが、お舟に乗っていない。ただ、お供えがお舟であるということだ。他のさいで地蔵様は、みなお舟に乗っていらっしゃって、どう見ても御地蔵様だ。
この中妻のさいで地蔵様は、御地蔵様といわれればそう思うだけだ。石像に詳しくないせいもあるが、多分、これが淡島様だといわれればそう思ってしまうだろうとも思う。
流し雛は淡島信仰を源流として発生したものと聞くので、福島の方に流し雛の話を聞いてみる。すると、少なくとも中野地域では、50年前あたりまでは、その風習があったとの情報を得る。
丸いボッチを顔に見立てて、そこに割り箸を指し、そこに和紙や布を巻いて人形を作って流したとのことだ。
なお、この話を聞いている中で、中野不動尊や、森合地区等での身のケガレを移して流し去るヒトガタの話との混同が起きる。「淡島信仰と流し雛 〜流し雛は雛人形の源流か(石沢 誠司)」によると、基本的にこれ等は、流し雛とはかかわらないという。また、流し雛の源流は、雛人形ではなく、その源流は淡島信仰で、江戸後期以降に発生した習俗とのことだ。
淡島様の仮の御姿を勝手に想像するのは、お舟と共に、この「さいで」という病に、女性の祈りや願いが込められているように感じることもある。更にいえば、新しい「さいで地蔵様」もみるということもある。