奥州街道清水宿散歩の寄り道、道草、わき道②~須南宮諏訪神社
2012年 02月 01日
拝み石のある山が羽山とのことだ。それなら、須南宮諏訪神社は、その羽山の際に鎮座する神社ということになる。
半沢氏のフィールドワーク地図のメモに、「諏訪神社 須南一の宮として幕末まで栄えた。51社の総社」とある。
須南宮というのは心地よい言葉の響きを感じるが、これは須川(現荒川に近い)の南という意。半沢氏のメモも加えると、その「一の宮」で、51社の総社ということだ。
階段を登ると、西方に本殿を配して参拝するように配置される。
ここに社務所は見当たらない。
実は、昨日さいで地蔵の旧地を整理したが、その中の粟島神社が鎮座するところが、須南宮諏訪神社社務所らしい。近視眼的には、神社近くでないことや複数の神社の社務所ということに違和感があったが、51社の総社であるということなら、これも合点がいく。
また、黒岩春日神社というと、別神社のイメージだが、諏訪山際の神社であることと諏訪山と諏訪神社の言い伝えを合わせてみれば、自然なことと見られなくもないとも思う。
羽山を意識すれば、境内の南側が気になるが、こちらにも、祠が配される。
崩れているのは、今回の震災の被害だろうか。
錦の目明神諏訪神社の由緒とのかかわりは解説されないが、「大蔵寺村(現黒岩)と伏拝の境に鎮座」という位置関係から、伏拝地名伝説にかかわる半沢氏のメモ「諏訪神社(西方)を諏訪山から」というその諏訪山とのかかわりを勝手に想像する。
大蔵寺村(現黒岩)と伏拝の境に鎮座していたが、諏訪神社の由緒に関係があるので現在地に遷座した。
「修験者供養碑」
森永乳業跡地にあったものをここに移すとある。
森永乳業西方なら、「息栖(いきす)神社(住吉神社)古墳・大カヤ文化8年(1811)の大火の焼け跡が残る」とある半沢氏のメモとのかかわりが気になる。また、羽山際でもある。
古い地図を見ると、虚空蔵様参道付近にも森永乳業にかかわる所があったようだ。こちらかもしれないとも思うが、地元の方にしか分からないことか。