旧国鉄レンガ積アーチ橋⑤
2011年 11月 18日
「東北線誕生物語」は、その「阿武隈川の水運」の利害をあげ、もう一つに養蚕農家の危惧をあげて以下のように解説する。
阿武隈川の水運で生計を立てていた船主・船頭らに加え、屈指の養蚕地帯であるこの地の農民は、「機関車の振動や煤煙で農産物に被害が出る」とする理由とともに、「東京から半日程でこの辺に生糸を買いに来られると、横浜の輸出価格地元の買い付け価格との差が縮まりもうけが少なくなる」と、相場情報のいち早い伝達を懸念して反対した。
この理由は、松川駅が八丁目宿を遠巻きにしていることと似ていて、納得しやすい。
この松川駅の事情については、「半沢光夫氏の福島発・歴史地図」を資料として、「旧奥州街道:日本柳宿から八丁目宿まで」で以下のようにふれている。
「松川駅」
明治20年八丁目宿の車夫ら運送業者や養蚕農家等と共に鉄道敷設に反対。宿場東方30丁の現在地に建設した。
これは、鉄道と「車夫ら運送業者」との利害関係の対立が中心であり、養蚕農家等を巻き込んだ反対運動とみた。
これと同様に、阿武隈川の水運の船主・船頭」との利害関係の対立が中心で、その運輸業者にお世話になる養蚕農家が反対に同調したという事ではないかと想像したのだ。
なお、松川駅が八丁目宿を遠巻きにしていることについては、「松川事件現場を確認する」でもふれた。
この現場は、八丁目宿を避けて回り込んだ松川駅から奥州街道に向かう途中にこの松川事件の現場はあるのだが、その奥州街道まで戻った後も、奥州街道に沿って北進する事にはならない。そのまま西に進んでから、福島盆地に入り込むことになる。
それは、この福島盆地に入る地点も阿武隈山地が立ちふさがっていて、そのまま一気に急勾配の地形を進むことを避けている。
西側に回り込んで最短のトンネルで盆地に入り込めるルートを確保したように思うのだ。
この山地を回り込むことで死角になる部分で松川事件が計画されたのではないかと思う。
今回は、阿津賀志山防塁にかかわって出かけてきたのだが、それとかかわる石那坂古戦場は、この地形とかかわて計画されたものではないかと思っている。
なお、この石那坂古戦場には、散歩を通して地域を実感するだけでたどり着きたいと思って、2年近く資料なしでこの辺を歩き回っている。しかし、残念ながら散策だけではたどり着くことはできなかった。
その後、資料に手助けされながら散策した事については、以下のように整理している。
〇 石那坂古戦場を訪ねる
〇 石那坂②~列車をとらえてみる
〇 石那坂戦将の碑③
〇 石那坂の戦い②を想像する