旧国鉄レンガ積アーチ橋④
2011年 11月 17日
今回、厚樫山防塁に出かけてきたのだが、ここを東北本線を通す苦労の実感と、ここに厚樫山防塁を設けて、ここで東北への侵略を防ごうとした意図が、少しだけ深く理解できように感じている。
「貝田旧国鉄軌道敷跡町道整備記念碑文」で、「止む無く路線を変更、貝田の急勾配の所を通さざるを得ず工事は困難を極めた」事について、「東北線誕生物語」では、鉄道局長井上氏の本音として、次のように紹介する。
白石付近は、奥羽山脈と阿武隈山地が折り重なっており、急勾配区間が12キロも続く。建設も心配だが、建設後の運行も心配だ。特に越河峠を越えるため、機関車が上れる限界勾配である25パーミル区間を何キロにわたて建設しなければならない。できれば陳情の多い白石側ではなく、阿武隈川沿いの平坦地に建設したい。これが、現在の東北本線のルートである。
「貝田旧国鉄軌道敷跡町道整備記念碑文」では、「初めは阿武隈川沿いで白石に通す計画であった」とするが、元々の計画は、白石側と対立する「阿武隈川沿いの平坦地」を通す計画だったと読み取れる。そのコースは現在の阿武隈急行線に近いルートとのことだ。
最初の案「阿武隈川沿いの平坦地」を通せば、白石が抜ける。その白石を通した阿武隈川沿いの平坦地というのは、その妥協案の時点なのではないかと想像する。
これらの事情をイメージしている時、どうしても福島県側から見てしまうが、そうではないらしい。これ等の工事は、北から南に進んでいる。南から建設が進められた福島の地点に、北側からどう結ぶかと見ているらしいということのようだ。
「貝田旧国鉄軌道敷跡町道整備記念碑文」では、急勾配の所を通すようになった事情を「ばい煙で、信達地方の養蚕桑園が、全滅すると言うことで反対」とする。しかし、ばい煙を忌み嫌う風潮はどのルートにもあるはず。それを越える理由があって、「建設や建設後の運行も心配な急勾配」ルートにしたはずだと思う。
それが、「東北線誕生物語」では資金的なものと説明する。こちらの方が、納得がいく。
「貝田旧国鉄軌道敷跡町道整備記念碑文」で「私鉄の日本鉄道が開業」とあるように、開通時点では私鉄だ。その日本鉄道は、工事を進めながら株主を募集するという運営の中で、白石側の株主の積極的な株の購入、駅や駅前通りの用地提供等、資金提供に積極的だったと説明される。それに対して、角田地方の資産家の反応が弱かったという。
「東北線誕生物語」で説明するこの理由によって「建設や建設後の運行も心配な急勾配」な現ルートになったという方が、福島県側の事情とするより分かりやすい。