「『宮脇遺跡』~第6次調査現地説明会」に出かけてみる⑦
2011年 10月 03日
そちらの整理の前に、3号礎石建物跡を整理しておく。
報告書では「西側にのびていないことを確認しました」とある。可能性として廻廊のようなものを想像し、そうではなかったという否定形の結びになりそうだということのようだ。説明会の中では、礎石建物ではなく、掘立柱だった可能性もあるとの説明だったように思う。当然、報道の対象にはならない。
それなら、この建物は何かという興味になるが、それは「分からない」ということになるのだろうか。
こちらが、そののびていないことを確認したという西側の整地面の様子だ。
今証明しようとすることと結びつかないけれども存在するということを大切にするという態度が、散歩を楽しむコツなのではあるが、震災以降この態度も強まっているように思う。
今回の震災で、地震や津波について、伝えなければならないという先人の思いがあったにも関わらず、伝わらなかったということが明らかになっているようだ。
歴史的にみれば短いスパンで、先人が必死で伝えようとしているのに伝わらなかったということだ。それは、専門家と称する方を中心に、その時代の価値観に合わなかったものは、なかったことにしようとしたことによることが大きかったのではないかと思える。
今回の震災で、せめて「分からない」けれども存在したという真摯な態度があれば、先人の忠告は生きた可能性はあったのではないかと思われる事例のいくつかを目にした。
そういう意味では、ここに立派な寺があったという地元の言い伝えも大きな価値のあることだということなのだと思う。立派な寺があったなら伝わるのは、それは当然と思うところがあったのだが、 実際には、伝わらないのが普通だと言う事らしいということだ。
この宮脇遺跡の発掘調査は、その存在の言い伝えをもとに行われたと聞く。
ついでに、今回の新聞報道についても、整理しておく。
<池に視点をあてた報道>
「排水施設か 石積み確認~伊達の宮脇遺跡」
~仏堂跡調査、金閣寺の影響判明~基壇の下に新たな池跡も~
南北朝時代の動乱で焼失、室町時代に再建された霊山寺跡とみられ、石積みの基壇などが確認された、伊達氏霊山町大石の宮脇遺跡で10日、現地説明会が開かれた。
調査は、同市教育委員会が2006(平成18)年度から開始。国史跡化を目指しており、今回は仏堂跡と考えられる建物の南西側を中心に調査し、仏堂全面に広がる池跡に関する排水施設のような石積みが確認された。池の水位を調整する役割などを担っていたと考えられ、池の大きさや出土した軒平瓦の文様などからも、京都鹿殖寺(金閣寺)などの影響を受け、北山文化を意識した格調高い寺院だった様子がうかがえる。
また、石積みの基壇のすぐ下に池が広がっていたことも新たに分かり、当時は池の中に建物が浮かんでいるようなイメージだったと推察される。(2011年9月15日「福島民友」)
<基壇に視点をあてた報道>
宮脇遺跡で「基壇」発見 伊達氏建立の可能性高まる
室町時代に伊達氏が再建した「里の霊山寺」跡の可能性が高いとされ、発掘が進められてきた伊達市霊山町大石の宮脇遺跡で7日までに、建物の下の基礎となる石で造られた基壇が見つかった。造成に財力や権力が必要な基壇が確認されたことで、当時現地を治めた伊達氏が建てた可能性が極めて高くなった。市教委が同日、発表した。
基壇となる石は、これまで発見された建物の南西の角に、建物を囲うように並び、大きさや形がほぼ均一になるよう加工されている。
また、市教委は、平瓦や棟瓦など総瓦葺(ふ)きの建物に必要な複数の種類の瓦を確認。総瓦葺きは当時、多大な労力が必要だったため、伊達氏の建物である可能性を裏付けた。市教委は10日午後1時30分から現地説明会を開く。
(2011年9月8日「福島民友」)
なお、この宮脇遺跡に関わる過去の報道の様子を詳しく紹介する「歴歩」というページを見つけた。
宮脇遺跡は霊山寺跡として興味があります。
会津の慧日寺は、再建ということまで事が運びましたが、こちらはどんな取り組みになるのかも楽しみです。