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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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高舘

 「飯坂城」は、現状ではその痕跡を全く確認できないということだった。それでも、散歩人でも位置図と地籍図の重なりが何となく推測できたような気分になれた。
 しかし、この「高舘」の場合、素人にはその位置図と地籍図がどんな重なりになるのかが見えない。とりあえず示された方位と位置をもとにして適当に重ねてみた図を持って出かけてみた。

 この付近を散歩したのは、「奥の細道」を意識して医王寺から飯坂温泉へ向かう道筋として歩いてみた時だ。
 「飯坂古道探索道草「奥の細道」~医王寺から飯坂温泉へ」では、案内板などをたよりに、縄文遺跡跡や舘を確認しながら飯坂に入った。
 ここで縄文遺跡としたのは月崎遺跡で、舘としたのがこの高舘だが、その痕跡は何もないということで、そのまま通りすぎている。

 この舘跡が破壊されるのは、東北農業試験場畑地利用部建設時だと想定されている。従って、明治期までは、この舘跡は明確に残っていたものと想像されている。
 「信達ニ郡村誌」によると、この舘は東西45間(81.45m)南北54間(98.35)の方形単郭の規模のようだ。
高舘_a0087378_5205997.jpg
 何となくではあるが、とりあえず重ねてみた図からは、この舘を西に見て通る道筋が見えるような気がする。ここからまたもや勝手な想像だが、「奥の細道」の芭蕉一行はこの道筋をたどったのではないかと想像してみる。
 「飯坂近辺の奥の細道:自分の散策と比べてみた」で想像した「医王寺から河岸段丘を降りて、小川を幅3尺(90cm)長さ5間の厚板が架設された八景橋を渡って、月崎の坂道を上った」後のイメージだ。
 その道筋に従って進んできたと想像し、ここから先の北に進む道筋をみると、大鳥城にも飯坂温泉に進んだとしても自然のような気がする。「奥の細道」のフィクション性とかかわって考える資料とはならないようだ。
by shingen1948 | 2011-09-13 05:27 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)