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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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地元意識にかかわって~「再び上岡遺跡」の整理で修正すること②

 昭和27年の上岡遺跡の発掘は、地域の力の結集が特色の一つと感じている。そういう意味でいうと、村の神社の変遷を国家神道政策という視点で捉えた整理は、片手落ちのような気もする。
 明治政府の政策にのって村の神社が変質したことは確かだが、村の変遷とのかかわりで、地域の力の結集の核になったという見方ができるような気がする。今回の震災復興にかかわって、祭りにはそのパワーの一つがあると思い知らされた。

 東湯野中学校を知りたかったのは、昭和27年の上岡遺跡発掘当時の村の地域力とのかかわりだ。
 「発掘調査報告書の再版~再び上岡遺跡⑰」では、東湯野中学校と湯野中学校の統合経緯について、曖昧なまま昭和30年3月31日の飯坂町との合併とかかわるのではないかとした。
 この時点で、湯野中学校と東湯野中学校を合併して西根中学校になったのだと推定している。
 このことに関わって、「福島市史」にやや詳しい説明を見つけたので、付け加えておく。

 まずは、中学校の創立だが、それは昭和22年の学制改革がかかわる。
 この時に東湯野村では、湯野村との組合立湯野中学校を模索し、発足したようだ。
 しかし、湯野村では、その校舎建設をめぐる土地問題が起きる。それで、昭和24年に組合立を解いたという経緯があるようだ。
 その2年間のブランクがあった後、東湯野小学校の一部に、独立して東湯野村立東湯野中学校として設立したとのことだ。
 従って、昭和27年の「上岡遺跡発掘調査」当時の東湯野中学校は、現東湯野小学校の地点と考えられる。

 東湯野との組合立をといた湯野中学校も、校舎建築は昭和24年で同じ年だ。
 こちらは、暮坪山(現湯野体育館)の地に校舎建築するようだ。こちらも、信夫高等学校とのかかわりで押さえておく。
 これ等の経緯があって、先に整理したように東湯野村は、昭和30年3月31日に湯野町・平野村・中野村・茂庭村と共に飯坂町と合併する。

 次に、この二つの中学校の統合だが、それは、この合併の3年後の昭和33年のようだ。東湯野中学校と湯野中学校が統合して西根中学校となるという経緯自体は、想像通り。
 ただ、元々創立当初組合立を目ざしていたという経緯が見えたことで、統合は当初から目ざしていたことであり、それが合併によって実現したという積極的な意味が想像できるという事だ。
 この時に、湯野の中学校が暮坪山から現在地に移っているらしい。

 そして更に、旧湯野中学校が移転した跡地の暮坪山には、独立した飯坂高等学校が建設される。これが、昭和35年という事のようだ。
by shingen1948 | 2011-08-11 05:05 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)