再び上岡遺跡⑤~上岡縄文人と出会った感動を読み取る
2011年 07月 21日
報告書にはより客観性を目ざして記述されているからこそ、かえってその主観的な実感を想像しやすい側面がある。
現況に回復される記録である「遺跡地の復元」を確認したのは、散策の楽しみを増すためだった。その意味では、「炉跡Bの炉跡Aは堀上げて、小原氏宅地内氏神様の境内に移動して、原形のまま復元保存した」との情報と、「出土遺物も全て同氏が保存」という情報は、散歩地点を増やす楽しみだろうか。
小心者の散歩人としては、直ぐに行動するというのではない。偶然の機会を待つ楽しさが増えたということだ。
現地は、炉跡や柱穴等の要所には多量の木炭屑を投入し、更に目印の玉石を1個ずつ入れて土を戻したとのことだ。
「遺跡地の復元」作業は、昭和27年の大晦日前日12月30日に行われている。
この日に、炉跡B地点を中心に測量と発掘場所の撮影の後、復元作業が行われたようだ。
その中で、炉跡B周辺から、土器の破片、原石、剥片、石屑、石鏃の未製品等たくさん出土したとのことだ。
この事に、報告書では「この炉辺で焚き火にあたりながら、石器の製造をしていたであろう姿が彷彿として眼前に感じられて一同感激をあらたにした」とある。
また、主観的な記述はないが、3千有余年前の人たちの姿を実感したであろうと想像される出来事が記述される。
この炉(炉跡B)から、東南70㎝地点の深い穴の東西の側の地下70㎝(床面下20㎝)のところに石の一面をこの穴の中に露出していたという。その石を堀上げたら、大型の砥石で縦45㎝×横20㎝の中高の石で、磨き面が明瞭に認められたとのことだ。
また、背面には凹石に見られると全く同様の凹み穴が三箇所認められたとのことだ。
勝手な想像をすれば、不明の深い穴は「ふくしまの歴史」がいう貯蔵穴だったのではないかとも思う。記述通りに見ると、背面はドングリなどを割るための置き台とて使い、表面が砥石あるいは、磨りつぶして粉にするための磨り皿として使ったということだったのではないかとも思う。
散歩人としては、感動の実感というこの主観的なできごとが読み取れるところがいい。調査経過から、この羨ましい古代の人々の生活を実感している現代人を確認する。
穴について、秋山氏は地下水の移動に伴う砂礫の浸食による陥落とみているようです。
可能性としては、葛の松原の名残の松の根の腐食による充墳もあるが、遺跡の東部高地でも2年前に2個所実例ががあるとのことで考察しているようです。
堀りあてた結果ではなく、元々あいていたということからは、そちらの可能性が高いのかもしれませんね。
ただ、散歩人の勝手な想像は自由ということで、凹石や砥石が傍にあるとのことで、古代人の食事をイメージしてしまいました。
報告書では、川とのかかわりをイメージしているようですので、これも勝手なイメージが過ぎているかも知れませんね。
報告書によると、当時は信夫高等学校教諭だったようです。ところで、信夫高等学校は、北高の前身と考えてよいのでしょうか。
そうだとすると、今で言う当時の高等学校の地域貢献はすごい力だったような気がしますね。
ウィキペィア事典に北高は、「1948年4月 - 福島県立信夫高等学校飯坂分校として開校」が見つかりました。
信夫高校それ自体は、福島工業高等学校のようですね。1957年 - 福島県立福島工業高等学校へ校名変更に伴ってその飯坂第2部と校名が変更され、その後飯坂高として独立してました。
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