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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「もう一つの奥の細道」⑪~「信夫(忍)の里」②

 去年から今年の散歩で、明治期にかかわる事には、いつも明治26年夏を基準に心の中でフィルターにかけていたようだ。この明治26年夏というのは、子規が来福した時期だ。
 単に、子規が来福して見た風景とどうかかわったかという興味だ。この期間を限定してみて分かったのが、この時代の変化の激しさだった。
 こんな片田舎でも、1年違っただけで、別の風景になってしまっていることが分かる。

 子規が、信夫山を訪れたこととかかわる風景を確認する。
 子規が、信夫山公園から福島の夜景を「ひとりじめ」した時とかかわるのが、競馬場だ。これが、子規が眺めている下方の視野に入っているはず。そのこととかかわる競馬場については、先に「信夫三山~松川と競馬場の情報②」として整理している。
 この競馬奉納とかかわる信夫招魂社は、護国神社の前身で、当然、子規の来福時には創建されている。その神社については、「信夫三山~松川と競馬場の情報④」と「信夫山と戊辰戦争 」で整理している。ただ、子規は時代の流れの中で捉えていたはずなので、見方は違う。
「もう一つの奥の細道」⑪~「信夫(忍)の里」②_a0087378_5303450.jpg
 護国神社隣りの駒山公園は、明治7年に信夫山公園として開かれているとのこと。子規はこちら側から信夫山公園に向かったのかもしれないと想像する。

 子規が、信夫山に登る途中で見上げて「地獄と極楽」と称した地獄の風景は、福島監獄署は、「福島の建築 21 」で整理した。これが、明治17年5月に南裏通りから信夫山際に新築移転しているらしい(「森合郷土史」では、明治18年)。整理していて分かったのが、これが福島の近代化というプラスイメージで捉えるべきものだったらしいということだ。
by shingen1948 | 2010-11-20 05:31 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)