地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「福島と戦争」~模擬原爆(パンプキン)投下⑮

 最近、平第一国民学校(市立平第一小学校)が被弾した時の体験談を読んだ。その手記は「市民が書いたいわきの戦争の記録~戦中・戦後を中心に(いわき地区学會出版部編集委員吉田隆治編)」<歴史春秋社>の中にあった。
 資料からは読み取れなかったことを、その手記で確かめる。
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 通史によると平空襲は3回あったとのことだ。その罹災範囲を図に示している。その図を基に地図と重ねてみる。その第二回目の平空襲罹災が、模擬原爆(パンプキン)被弾による罹災地ということになる。(平の土地勘がないので、うまく読み取っているかどうか分からないところがある)
 今までの資料では、高等科の児童が全員無事に避難したことは読み取れたが、それ以外の児童の動きは読み取れないでいた。
 手記によると、この日は、初等科の児童は臨時休業にして登校していなかったようだ。高等科の児童は登校していたが、始業前に空襲警報があった時点で、全員帰宅させたようだ。それから、職員達が避難行動に入り、その直ぐ後に被弾するという事態になったということのようだ。
 手記を書かれた方は、一徳坂の一番下の防空壕に逃げ込んだとある。地図で確認すると、この学校は高台にあるようだ。坂を下った所にある避難防空壕は、神社のある側だろうか。
 避難している中で、大きな爆音、崩れた瓦礫が飛んできた描写など生々しい。
 手記では、防空壕から戻ると校舎がなくなっていたとある。別のページにある被弾直後の学校の写真をみると、校舎は完全に吹き飛んでいるようだった。校舎直撃だったらしい事が分かる。
 その建物の位置関係を描写から拾う。
 校舎は道路に沿ってあったといい、吹き飛んだ残骸が、女学校の校庭にあったという。
 また、防空壕から戻る途中、教頭先生が、校庭で誰だか分からない状態で負傷している描写があり、校舎がなくなって女学校が見えたということだ。これらから、この校舎は西側に建っていたのかなと想像する。
 その建物の玄関で、校長先生と瓜田先生が被弾して倒れていたという状況のようだ。この手記で、市史の中の渡邉氏が、この学校の校長先生で、玄関で即死の状態だったことが分かる。周りが慌ただしくいろいろな処理に走る中、この手記を書かれた方が、中心になって校長先生を校庭の端に運ばれて見守られていたという状況であったようだ。瓜田先生は、息があったので病院に運ばれたが、ここで亡くなられたようだ。
 市史の中では、このお二人の方は、氏名が明記されている。もう一人の方は佐藤氏とあるだけだが、この方が三義先生とのことだ。併設された平盲学校の委託職員の方で、緊急に公務整理中に被弾されたという状況だったということのようだ。
 その他、山田先生が負傷で病院に運ばれ、大平先生が暫く行方不明だった等々の混乱も生々しい。
 手記では、これら混乱の中、授業再開に向けた動きも記録されている。
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by shingen1948 | 2010-10-04 06:16 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)