地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

「福島と戦争」~模擬原爆(パンプキン)投下⑦

 確認していく中で、目標とされた郡山軽工場の位置が、郡山の紡績工業の中心地帯らしいことが見えてきた。
 市街地の中心より西外れの位置は、発電所とのかかわりらしい。その発電所の電気利用とともに、この発電所も郡山の紡績工業の発展経緯とかかわっているということのようだ。
 その発電所は、郡山絹糸紡績が猪苗代湖の水路に発電所を作ったようだ。その地元資本の郡山絹糸紡績は、明治45年に創設された片倉岩代製糸所に吸収され、最終的には日東紡績工場へと発展するようだ。その経緯の中で、地元資本の大日本紡績・郡山紡績も吸収される。これが日東紡第二工場・第三工場ということらしい。更に、日東紡績では、冨久山工場を新設し、これらの工場が統合されていくようだ。
 これらのめまぐるしい変遷が分からない他所者には、多様な工場の名称使用が情報の混乱と見えたということのようだ。

 その第三工場の着弾情報は、アメリカ側の情報では、最終報告書で優秀とされるのに、「被害軽微なり」しか見つからないのが気になっていた。最近【郡山軽工業 死者15名】【郡山操車場 死者34名,傷害224名】という情報をみつけ、勝手にこちらの情報が事実に近いのではないかと思っている。
 死者15名というのは単なる数値かもしれないが、その数にはそれぞれの尊い人生が対応するはずなのにとも思う。それでも、郡山は4月12日にも空襲を受けて92人が亡くなられている。このことによる感覚の麻痺と理解できなくもない。

 もう少し、昭和20年7月29日の郡山空襲の情報と照らし合わせる。警防団の活躍のページでは、郡山駅に着弾した模擬爆弾の被害とその対応状況が確認しやすい。

 警防団の活躍のページ
 7月29日(日曜日)は、午前9時過ぎ、駅前付近に爆弾が投下された。空襲警報は発令されていなかった。爆弾の直撃を受けた付近の建物は全壊数棟、駅庁舎は半壊、待合室などで即死者が出た。
 線路が吹き飛ばされ、貨車も被害を受けた。

 ※ 「郡山戦災史」の「第一、第二各分団の活動」
 <第一分団> 本町方部。分団員50名(消防部員20名、警護部員15名、警報救護部員女子15名)
 △  7月29日の空襲=救護班を編成して郡山駅の死傷者の救護に当たる。重傷者は樺沢医院に運  ぶ。
 <第二分団> 中町、北町、柳町、大町方部。団員50名(男子のみ)
 △  7月29日の空襲=爆撃を受けた郡山駅は火災にならなかったため、消火活動より死傷者の救  護、搬出に当たった。
 (昭和20年7月29日の郡山空襲の記録部分を抜粋した)

 なお、この時に一緒の任務で中島飛行機発動機工場に投下した模擬原爆(パンプキン)は、現在の保谷市柳沢1丁目に外れて、死者3人 負傷者8人とのことだ。死者は、農家の主婦の方らしい。
 こちらでは、中島飛行機武蔵野製作所を狙った空爆が頻繁にあったようだが、その被害についての情報がきちんと整理されているようだ。ネットでも簡単に戦争の被害を知ることができる。
[PR]
by shingen1948 | 2010-09-26 05:25 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)