地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「福島と戦争」⑦

 展示会では、当時の航空写真に、福島の戦争にかかわる位置をプロットされたパネルも掲げられている。その中で、信夫山の地下工場にかかわるプロットは次の点だ。
○ 信夫山地下工場山根第一工場
○ 信夫山地下工場山根第二工場
○ 信夫山地下工場金龍工場
 そして、
○ 信夫山地下工場本部である福島経専(後福大経済学部校舎、現県立美術館)
○ 地下工場掘削作業員の飯場の一つである旧福島中学校校舎(現福島高校)
 このパネルにプロットされていないが、信夫山地下工場本部は、証言集等から拾ってみると、現竹屋旅館から移ってきたようだ。もう一点、気になっているのが、中島飛行機の日東紡半地下工場だ。 証言集の地図を確認すると、日東紡球場の南側だ。気になる理由は個人的なことで、この近くに住んだことがあるのに、その景色が思い浮かばないということだ。ここらあたりは、子どもとよく散歩したはずなのだ。
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 展示会をみたのを機会に、確認してみることにした。
 証言集の地図を確認すると、現在は、工場の水道施設になっているところらしい。橋のたもとからそちらの方向を確認する。


 とりあえず、土手の道を進んでみる。日東紡球場に曲がってみると、何となく見覚えがある。
 そう、散歩で通った道は、球場からアパートの方に延びる道だ。そちらに向かって進んでみると思い出した。
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 確かにこの水槽の脇を通ったことがある。
 この水槽あたりが、中島飛行機の日東紡半地下工場ということのようだ。その半地下だったことを利用した設備なのかなと勝手な想像をする。

 来たついでに、昔住んでいたあたりを探してみた。大きく様変わりしていたが、ぐるぐる回っていると当時の景色が蘇ってきた。

 信夫山の地下工場を整理しながら思い出した事がある。十数年前の話だ。
 中島飛行機のプロペラを設計したという方が、自分が寄贈したプロペラがどうなったか知らないかとの問い合わせに応対したことがあるのだ。その時点では、その話が信夫山の地下工場と結びつかずに、遠い処の話だと思っていたのだ。
 最近になって、あれはここ信夫の里の話だったのだと分かったというお粗末な話だ。少なくとも、無知のため、そこで働いていた方の話を聞くチャンスを逃したという事だ。
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by shingen1948 | 2010-09-01 05:33 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)