安江繁家⑯
2010年 08月 07日
「福島市寺院名鑑」では、由緒と沿革で、その寺の開基にかかわっては、次のように説明する。
伊達家人8代瀬上康秀が瀬上舘から大笹生城に移り、明応7年亡父のため菩提寺として開基し、米沢輪王寺極堂宗三和尚を向かえ、統禅寺として開山した。
なお、東禅寺に改称されるのは、弘治2年3世和尚の時とのことだ。
確からしさにこだわらないで楽しむというのが、散歩の原則だが、今回は、そういうわけにもいかない。地域の中で認知されている確からしい事に、矛盾しないということが大切になるからだ。
瀬上氏が、大笹生の(塁)舘に移ったのは確からしいことのようだ。ただ、この塁が大笹生舘かどうかは確認されているわけではないということらしい。
大笹生の(塁)舘に移った年代から推定して、8代康秀の代とするらしい。このことと、この康秀が、明応7年(1498)に東禅寺を建立して菩提寺にしたという情報に結び付くという。こういう道筋での確からしさのようだ。
なお、永正13年(1516)2月に、飯坂但馬重豊氏(下飯坂氏の祖で、飯坂家5代重房の子)の讒言にあって、稙宗に誅されている。また、この康秀には、嗣子がなく、猪苗代備中盛連の3男宗康を養子とする。
この後を嗣いだ宗康は、稙宗から養父の康秀は無罪だったとして5000石を与えられたとされているようだ。
この瀬上氏が大笹生を引き上げるのは、この宗康の子信康の時代。
例の天文の乱では、瀬上氏は晴宗側についたのだが、天文22年(1553)晴宗から羽州置賜郡野谷地を宛がわれ、その後伊達氏の臣として各地に転戦するというこの時期に大笹生を引き上げたとみる。
これが地域の見方のようだ。この話と今回の話が、矛盾あることにはならないということは明かなことであることを確認しておく。