地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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福島の建築37

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 全体が見えないが、多分、日本銀行の南側だと思う。懐かしい形の車とスクーター、路面電車の線路が写りこんでいる。
 日本銀行福島支店は、明治32年に日本銀行6番目の銀行で、福島出張所として設立された。その年の5月には、奥羽線福島―米沢間が開通し、明治40年に福島町は福島市となる。

 この頃の日本銀行福島出張所は、東北6県を管轄していたという。明治44年には、支店に昇格したようだ。
 昭和16年に、仙台支店が開設されるまで、東北の中心的な銀行だったとのことだ。


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 これは小倉邸に掲示された建物全体像だ。見比べてみると、間違いなさそうだ。
 この建物も赤煉瓦造りで、福島県農工銀行と同じ頃に改築されたということだが、手持ちの資料では、その確認ができない。昭和55年に取り壊しというのは、確認できる。

 この日本銀行が設立された状況について、「ふくしま散歩」では、明治27、8年の日清戦争後、福島でも、停滞していた産業界が活気を帯びて、東北地方の物産の集散、金融の流通に重要な地点になってきたからだと説明する。
 明治27年には、蚕糸米穀株式取引所、明治28年には福島電燈株式会社が設立される。
 そして、明治29年には福島商業銀行が、明治31年には福島県農工銀行、福島銀行などが設立されたという。

 図説「福島市史」では、銀行の変遷について、時代ごとに整理している。それを追って、自分の整理してきたこととその事情を、関連付けておく。自分とは縁遠い銀行の豆知識だ。

 明治6年創立の第六国立銀行は、野田村萱場の阿部紀とかかわるようだ。(※「野田村郷土史」では、創立は明治4年としている。)
 日本銀行が創設される頃は、福島では第百七国立銀行や福島銀行・県外銀行の支店など13銀行が、活発な活動を展開したようだ。そんな中で、福島商業銀行、福島県農工銀行の創立ということがあって、日本銀行が設立されるようだ。
 明治11年に設立した第百七国立銀行や福島銀行というのが、先に「吉野邸」で整理した吉野組がかかわる銀行だ。
 明治31年創立の福島県農工銀行が、「福島の建築 ⑪-4~第一勧業銀行福島支店②と福島煉瓦と」で整理している銀行だ。

 大正期には、この日銀・県農工行・百七、そして、安田等支店の金融機関に、明治45年設立の岩代銀行が加わり、中商工業利用の金融機関が設立される。
 そして、昭2年から始まる全国的な銀行の休業、破産は、福島にも波及する。これが、吉野邸で整理した吉野家の没落とかかわる。
 福島では、昭和2年の福島商業銀行の休業に始まり、昭和3年には13行、昭和4~5年には各1行、昭和6年には6行にその余波か及んだという。

 先の吉野組の第百七国立銀行は、明治3年に休業するようだ。
 図説「福島市史」では、その原因を吉野氏が他の銀行や多くの会社の頭取重役を兼ねていたため、関連会社に多額の貸し付けを行ったという放漫経営があったと指摘する。
 しかし、それだけではなく、銀行界に政争が持ち込まれたこともその一因だとも付け加えている。
 銀行に、政友会系と民政党系、それに中立系という政争が持ち込まれたという。ちなみに、百七銀行は政友会系だったとか。
 福島の報道も民友・民報・福島毎日の3派に分かれての報道合戦で、煽りが増幅される側面もあったという。互いの欠如と経営状態の暴露が行われ、その結果、一般預金者の不安が煽られたということだ。
 この荒波の中で、県内13銀行の合併が行われたという。

※ 「ふくしまの西洋造~明治洋風建築の通観(草野)」から、以下の建築物としての要素を付加する。(6/6)
 設計長野守平治と伝えられ、大屋根マンサード風
 明治44年着工  
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by shingen1948 | 2010-06-01 05:02 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)