信夫三山~松川と競馬場の情報④
2010年 05月 20日
気になるのは、「明治維新の役に際して、東征西伐、力を王事につくして身を国際につくした勇士奮戦死の精忠の霊魂を慰めること」というところだ。
確かに、「国難死した者等の忠節を嘉して」いる信夫招魂社の祭礼として実施するわけだから、当然といえば当然の目的かもしれない。
信夫招魂社のこの時点での具体的な祭神は、戊辰の役参謀世良修蔵主以下768柱と西南の役陸軍歩兵少尉小早川次郎主以下176社だ。
これを具体的な話にすると、東征西伐されたのは、会津であり、白河であり、二本松ということだ。そして、慰められている勇士奮戦死の精忠の霊魂は、参謀世良修蔵主以下768柱ということになる。
この時の会津での弔いは、東軍の義に殉じた者は東軍墓地へ、西軍の義に殉じた者は西軍墓地へ対等に祀られていたはずだと思うのだ。しかも、東軍の死者を葬ることを禁止された状況があったとも聞く。
それが、ここでは「岩代国北会津郡若松に在りし招魂場に祀る柱」と「磐城国相馬郡大野、同国田村郡三春の在りし招魂場に祀る柱と同従軍殉国の者と西南の役に戦死せる管内人176柱」のみの勇士奮戦死の精忠の霊魂を祀るということになっている。その上に、そのための福島競馬が開催されているということだ。
そこが、気になる。
競馬のもう一つの目的は、馬の改良の必要性ということであるが、これも別な意味で気になる。ただ、こちらはうがった見方かもしれない。
この競馬の発起人は、馬商組合代表ということだ。馬の改良の必要性は、当時の戦争とのかかわりと考えられ、軍備増強に向けて戦意を高揚することで利潤が上がる馬商組合が発起人となっているという状況だ。戦意を高揚したいという意図がなかったかどうか。
浅草屋宇一郎は、世良修蔵を暗殺したことを後悔し、世良の位牌を大切にしていたという。これは、誘導された世相の中があって、そこで、穏便に暮らす生活の知恵として、こういう態度を とる必要があったと想像する。
そのことと招魂社とのかかわりについては、「信夫山と戊辰戦争」として、先に整理している。その感覚が、今回の福島競馬を整理するとこで強化されたと思っている。
彼は旧会津藩士で遊撃隊にいたようですから、
佐川官兵衛の指揮下にいたのかも知れません。
佐川は西南の役で戦死してますから、その慰霊の意味もあったか、と勝手に想像しました。
西南戦争では、旧会津藩士は、恨みを晴らすべく頑張ったという話も聞きますので、裏に遺恨の連鎖のようなものを感じています。某首相が、会津に入るとき、一応形式的に謝りのコメントを準備したなどという単純な話ではなさそうですね。
頂いた情報から、「福島煉瓦業の碑」の確認に出かけてみました。