信夫三山~岩谷観音あたり
2010年 05月 16日
資料を整理しようとして、半田氏のメモに「信夫八景の碑」の説明を見つけた。
明治38年に建立
文知摺のむかしのあとをしのぶねの晴れ渡りたる色に見るかな
「巌窟晴峯」東洋大学学長大内青巒
碑陰に笹木野煉瓦工場の碑文がある。
この碑文の情報と岩谷観音については、後で整理する。
本当は、この整理後に、この隣の成田山にすしだけふれようと思っていた。先の散歩では、この成田山は意識していなかった。改めて出かけて、中もちょっと拝ませていただいた。「間引き絵馬」という半田氏のメモも見たが、それが何かはわからない。
「信夫山めぐり」では、岩谷口先達の修験金岳院とのかかわりについてふれている。それによると、ここは、明治34年開創で、古い不動三尊を安置したとのことだ。それが、岩谷口先達金岳院護摩堂の本尊とことだ。
岩谷口先達の修験金岳院は、明治初年に還俗して織田氏を名乗り、護摩堂本尊不動を、この成田山に納めたという。
その隣が「観音寺」で、岩谷観音の別当寺とのことだ。
古くは、115号線沿いにあったが、明治23年正月5日の大火後、現在地に移転したという。半沢氏の地図では、この旧地は五十辺館の南側にプロットされている。
「信夫山めぐり」では、この事実を明治29年とする。移転された時点と、火災で焼けた時点の違いだろうか。
なお、山門は、焼け残ったものを移築したとのことだ。
岩谷観音の摩岩仏群への信仰は、信達一円に及ぶが、確認していくと、この信夫山北東部は、五十辺村とのかかわりが強いようだ。