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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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信夫三山~岩谷観音あたり

 笹木野煉瓦工場の碑文の情報を得て、岩谷観音に出かけた。確かに「信夫八景の碑」の裏に、その「笹木野煉瓦工場の碑文」はあった。言い訳っぽいが、見つけられなかったのは、無理もないとも思えた。汚れで、白と黒のまだら模様になっていた。注視しないと、そこに文字が刻まれているということには気づきそうもない状況だった。
 資料を整理しようとして、半田氏のメモに「信夫八景の碑」の説明を見つけた。
 明治38年に建立
 文知摺のむかしのあとをしのぶねの晴れ渡りたる色に見るかな
 「巌窟晴峯」東洋大学学長大内青巒
 碑陰に笹木野煉瓦工場の碑文がある。

 この碑文の情報と岩谷観音については、後で整理する。
信夫三山~岩谷観音あたり_a0087378_10242492.jpg
 本当は、この整理後に、この隣の成田山にすしだけふれようと思っていた。先の散歩では、この成田山は意識していなかった。改めて出かけて、中もちょっと拝ませていただいた。「間引き絵馬」という半田氏のメモも見たが、それが何かはわからない。
 「信夫山めぐり」では、岩谷口先達の修験金岳院とのかかわりについてふれている。それによると、ここは、明治34年開創で、古い不動三尊を安置したとのことだ。それが、岩谷口先達金岳院護摩堂の本尊とことだ。
 岩谷口先達の修験金岳院は、明治初年に還俗して織田氏を名乗り、護摩堂本尊不動を、この成田山に納めたという。
信夫三山~岩谷観音あたり_a0087378_10264514.jpg
 その隣が「観音寺」で、岩谷観音の別当寺とのことだ。
 古くは、115号線沿いにあったが、明治23年正月5日の大火後、現在地に移転したという。半沢氏の地図では、この旧地は五十辺館の南側にプロットされている。
 「信夫山めぐり」では、この事実を明治29年とする。移転された時点と、火災で焼けた時点の違いだろうか。
 なお、山門は、焼け残ったものを移築したとのことだ。

 岩谷観音の摩岩仏群への信仰は、信達一円に及ぶが、確認していくと、この信夫山北東部は、五十辺村とのかかわりが強いようだ。
by shingen1948 | 2010-05-16 10:31 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)