福島の建築 26-3
2010年 02月 26日
その中で、自由民権運動とこの客自軒のかかわりは、人のつながりで少し見えたと思っている。
「風雲・ふくしまの民権壮士」では、康五郎を、民権壮士として次のように紹介する。
彼の住んだ北町58番地は福島の遊里街とし、彼の義父浅草宇一郎は、十手を預かる仁侠人で有名な遊郭兼料理屋の主人である。
明治15年の秋、福島事件が起こると無名館に出入りしていたとして、田村鉄三郎と井上康五郎は三春の僧侶岡大救らと福島警察署に逮捕され、厳しい取り調べを受けて若松送りとなる。
若松に送られた井上康五郎は、突然保釈される。福島署は、検事に井上康五郎の保釈に反対していたのに、翌日には、至急免訴の執行相成度と申し入れる。その背景には、康五郎の義父浅草宇一郎の嘆願書がある。
その嘆願書には、自由党などに決して加入しないようにするとある。浅草宇一郎が、自由民権運動を必ずしも肯定していないらしいことが分かる。
ここで、先に整理した「客自軒」があつた辺りの位置関係の部分を再掲し、人のつながりを整理する。
北南町金沢屋に投宿していた奥州征伐軍の下参謀世良修三を仙台藩士が襲撃することは、「浅草屋」の浅草宇一郎もかかわるのだが、「浅草屋」は、現在の明治病院の位置だ。
「浅草屋」と「客自軒」の人的な関係は、浅草宇一郎の養女が、「客自軒」の井上喜兵衛の妻かねであるということだ。その関係で、夫婦とも浅草宇一郎と養子縁組をするらしい。
この「客自軒」の井上氏の長男、井上康五郎が自由民権運動に深くかかわる。
客自軒の若旦那であると共に、よく自由民権の演説会場として使われていた「尾上座」の小屋も経営していたということだ。
浅草屋宇一郎は、何故世良を暗殺したことを後悔することになるのか、よく分からないところがある。理念としてのことなのか、現世を渡る手段としてなのか。
高橋氏が、十手持ちの侠客による康五郎の「もらい下げ」の見解を示していることは、浅草宇一郎は、藩閥政府による職を得ていたということだ。少なくとも、宇一郎自体は、三島県令とは対立関係にはなさそうだということだ。
世良を暗殺する仕事と、藩閥政府による職を得ることを自分の中でどう決着させたのかは、よく分からない。ただ、このことからは、世良の位牌を手厚く扱うことになったらしいという背景は、現世を渡る手段だったように思えてはくる。
「客自軒」と「金沢屋」の人的関係は、「客自軒」の若旦那康五郎は「金沢屋」斎藤浅之助の妹シウと恋仲になるらしい。ただ、「金沢屋」では、仁侠人でしかも世良修造の殺害にかかわった浅草宇一郎とのかかわりから、結婚には反対だったらしいとのことだ。
先に、この「客自軒」があつた辺りの様子については、先に「宝積寺と長楽寺③」として整理している。そこでは、長楽寺も含めたもっと広い範囲を整理した。