地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
a0087378_983412.jpg 案内板の解説にはないのだが、この八丁目の天神信仰に大きくかかわっていらっしゃると思われる方がいらっしゃる。
 その方は「忍幢律師」とおっしゃる方で、「信達二郡村誌」によれば、「師は本村の産にして大和国奏楽寺に住し 此神を尊信する他に異なり」という方のようだ。
 社前に飛梅と称する古木は、「(この忍幢律師が、)古府菅祠の飛梅を乞い分ちて安永年間(1772~1781)植える所なり」と紹介する。

 「大和国奏楽寺」は、現「奈良県磯城郡田原本町 奏楽寺」だと思われる。
 その「奏楽寺略縁起」によれば、大化3年(647)に秦河勝が建立し、聖徳太子から下賜された観音像を本尊にしたと伝わるという古寺のようだ。
 大同3年(807)には空海が『三教指帰』の一書を当寺で執筆し、阿字池を築造したとの言い伝えが残っているという。この当時は、天台・真言宗の僧坊が棟を並べていたとされ、顕密二教の霊場だったとされる。
 発掘調査でその創建年代は確認できていないものの、8世紀後半頃の柱穴は見つかっていて、少なくともこの時期以降に寺院が存在したことは確実だという古寺なのだという。
 この寺の江戸時代の特記事項を確認すると、次の二項が確認できる。

 1759 僧 恵海 、秦楽寺 の堂字 を再建
 1806 僧 憲実 、方広寺 大仏の再 興を発願

 忍幢律師のこの寺での確認は今のところできていないが、古府菅祠の飛梅を乞い分ちて植えられたのは、この2項の間の安永年間(1772~1781)という時期にあたるようだ。

 地域の人々にとっては、この八丁目天満宮は、地元出身の大和国奏楽寺高僧忍幢律師も信仰なされていた天神様という信仰の支えがベースにあるということかなと想像する。
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# by shingen1948 | 2017-07-21 09:12 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 案内板の解説から、八丁目天満宮は地域では天神様と愛称されていたとのことだが、明治4年の明治政府の神仏分離令対応の際に八丁目天満宮と改称されたことが分かる。また、この時に、天神様に下げられていた鰐口を取り払い鈴が下げられ、安置されていた十一面観音は西光寺に遷されたということも分かる。

 その西光寺に遷された十一面観音について、「松川のあゆみ」では、昭和になってからは本堂に安置されているようだが、当初は般若堂に安置されていたと解説されている。
a0087378_8435116.jpg それで、その当初十一面観音が安置されていたという西光寺般若堂はどの施設なのかなと確認を進めたら、門前のこのお堂らしいことが分かった。

 「地域のお宝情報」によると、このお堂は、元々はお経を収める倉として作られた経蔵だったそうだ。
 地域住民の信仰心に「天神様」のご神体とされている「十一面観音」を明治政府の神仏分離令対応で祀ることになった時に、その「十一面観音」を安置する「観音堂」としたといことのようだ。
 地域住民はもとより街道を行き交う人々に広く親しまれるようにとの配慮からなのだろうと思われる。

 現在の般若堂の姿は、震災後の平成24年に屋根と外壁が改修されたもののようだ。
 この土蔵造り平屋建のお堂の屋根は、現在は切妻銅板葺きのようだが、当初は小羽葺きで、その後鉄板葺きになったとのことだ。
 外壁は、現在は壁漆喰塗り腰石貼りだが、当初はなまこ壁だったとのことだ。

 案内板の「現在の祭礼」に「25年ごとに御神記祭(遷宮祭)」とあるのは、現在の地域の人々の信仰心とのかかわりを配慮されたものなのだろうと推察する。
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# by shingen1948 | 2017-07-20 09:42 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 「奥州街道」八丁目宿の南端である境川から八丁目村を中心に天明根村あたりまでを概観したところだ。
a0087378_8402744.jpg その八丁目村南端には標柱に仰々しく「奥洲」を冠に掲げた「八丁目天満宮」が建つが、その天満宮にかかわる情報を拾い集めてみる。
 まずは、その天満宮境内の案内板の解説。


「八丁目天満宮」
 天神様の呼称で親しまれている。古くは八丁目村と天明根村の鎮守社。明治4年の神仏分離の際、現社名に改称。ご祭神は学問の神様と言われる菅原道真公である。
 文正年中(1466~67)筑紫大宰府(福岡県太宰府)より本西にあった浄土宗長福寺境内に勧進。
 天正(1573~93)の兵乱に逢い神殿が灰燼に帰す。そのため今の南部、古天神に小祠を建立する。元禄年中(1688~1740)現在地に遷座。正徳4年(1714)3月に再建したのが今の社である。
 明治の初め神仏分離令が出されるまでは鰐口が下げられ十一面観音が安置されていた。しかし、神仏分離令により十一面観音は西光寺に遷され鰐口に変わって鈴が下げられるようになった。
 拝殿の両側には寺院にみられる花頭窓が取り付けられており、境内入り口の石灯籠には別当「西光寺」とあり、神仏混淆時代を色濃く残ず珍しい神社とされる。
 古い時代の祭礼は、菅原道真公の命日である6月25日に執り行われていた。

 現在の祭礼
 1月1日元初祭
 1月第2日曜日高校大学合格祈願祭
 3月第1日曜日勧学祭、祈年祭
 7月第3土曜日夏季例大祭
10月第2日曜日(土日月)秋季例大祭
11月23日新嘗祭
25年ごとに御神記祭(遷宮祭)
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# by shingen1948 | 2017-07-19 09:39 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
a0087378_5172318.jpg めがね橋から天明根村から鼓岡村の中町にかけての風景だ。
 「八丁目家主一覧」によれば、この街道の中央に牛馬の脚洗い用水が通っていたとのことだ。その図をみると、その用水路がめがね橋の右側に延びているようだ。その先で水原川への排水を想像する。

 この写真に大きな薬局が写るが、その向かい側辺りに明治45年創立の「松川座」を勝手に想像してみている。

 大正13年創立で昭和37年まで続いていたという芝居小屋「松楽座」については、先に「松川事件を歩く」の散策時にその位置を確認していたところだが、それ以前の常舞台だ。

 「松楽座」は「写真集:明治・大正・昭和 福島(大竹三良)」に大正13年の記念興業時の写真が掲載されている。その写真解説に、その常舞台「松川座」についてふれた箇所がある。
 明治45年頃天明根にできて大正5~6年に終わったとのことだが、その集客とのかかわりについては、「宿場町から発展した松川町は幕政時代から遊郭もあり、鉄道忌避で寂れたとはいえ、周辺の農村を商圏としてにぎわっていた」と解説される。

 「松川のあゆみ」では、更に詳しく金沢屋忠兵衛が私財を費やし西光寺の庫裏を解体して建設したものということと、現中村工場事務所付近という位置情報が解説される。
 ただ、こちらにもその「松川座」を紹介する写真はない。また、現況ではその位置情報である中村製作所も確認できない。

 しかし、昭和46年のこの付近の地図を確かめると、その「中村製作所」が表記されていた。
 そのプロット位置は街道の東側だ。
 具体的な位置は分からないのだが、絞り込むヒントはその所在地が中町ではなく天明根村らしいことだ。街道の東側は中町が食い込んできているので天明根村分はそれほど広くないのだ。
 これが、「松川座」の位置を勝手に想像した根拠だ。

 細かいことで気になるのは、「松川町青年団」の結成情報とのかかわりだ。
 明治43年結成らしいのだが、その発会式が字天明根の常舞台「松川座」で挙行されているというのだ。
 創業は明治45年とのことだが、その2年前の明治43年に常舞台を使用させたということなのかな。
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# by shingen1948 | 2017-07-17 09:16 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)