地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 浅川地区の散歩資料で、「浅川と喜熨三太郎秀房一座」とかかわるとされる辺りを散策したところだ。
 この辺りを、旧浅川村とのかかわりで眺めれば、中沢屋敷とかかわる辺りだろうか。
 「浅川、松川散策の写真メモから⑤~舟橋地区④:船橋観音堂」でもふれたように、旧浅川村の起こりは、5軒在家なそうで、古浅川村と呼ばれるそうだ。
 そのうちの宮屋敷、中屋敷、舟橋屋敷(尾形若狭)、古浅川屋敷辺りについては、ごく一部ではあるがふれていた。今回は、今までふれていなかった「沢の深い中沢屋敷」の一部にふれたということだ。
 ただ、今では風景としては開発された地域のように見えるが、古くはこの「沢の深い中沢屋敷」の耕地を潤すための中沢渠の水源地群の東端辺りの風景のようだ。
 そして、「沢の深い中沢屋敷」在家自体は、もっと東側の現上中沢・下中沢地域辺りなのだろうと思う。

a0087378_9342468.jpg これは蓬莱団地の道筋に上ってから眺めたところだが、ここに写るお堂が、「黒虫地蔵」なのだと思う。
 「黒虫」というのは、マムシの別名だ。恐らくこの辺りには多くのマムシが生息しているということなのだろう。それで、小心者の散策人としては、ここに立ち寄るつもりはなかったのだが、この写真を見る限りでは、その心配もなさそうにも思う。
 浅川の散歩資料によれば、昔は樹齢200年程の松がお堂を覆うようにかぶさっていたのだそうだ。幹回り150㎝程の太さだったそうだが、松喰虫の被害で昭和末年頃に切り倒されたのだそうだ。
 祀られた地蔵尊は文政年間(1818~1830)に清水町の人が彫ったものなそうだ。
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# by shingen1948 | 2018-01-12 09:36 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_10274623.jpg 「初代市川猿之助の母の墓」があるとされる土手の南側の風景だ。
 民家の左側から登っていくことが可能と紹介されるが、地域の方ならいざ知らず、よそ者が立ち入れるものなのかどうかは知らない。

 この喜熨三太郎秀房一座と初代市川猿之助の母の墓についての話だが、何となく懐疑的に受けとめているところがある。
 ただ、初代市川猿之助を確認すると結構辻褄が合っていて、確認自体も楽しめる。

 歌舞伎など古典芸能にも疎いので、取りあえず基本的な情報を検索してみる。
 「ニッポニカ」に初代市川猿之助<安政2年(1855)~1922>について服部幸雄氏の次の解説があるとの紹介が検索できる。

 「坂東三津五郎の門弟で、殺陣師の名人といわれた坂東三太郎の子。
 初め5世尾上菊五郎に入門したが、後9世市川団十郎の弟子になり山崎猿之助と名のる。明治7年(1874)中島座で、歌舞伎十八番の『勧進帳』を師に無断で上演して破門され、松尾猿之助の名でもっぱら小芝居や各地方の芝居に出演していた。
 明治23年(1890)帰参を許されて市川猿之助と改め、師とともに歌舞伎座に出られるようになった。
 しかし、明治30年(1897)以降は、小芝居の座頭格の立者となって活躍。明治43年(1910)には、2世市川段四郎と改名した」

 この情報を元に、三太郎一座の座長が江戸に出て、殺陣の技をかわれて坂東三津五郎の門弟となり、その殺陣師となったとの想像は可能だ。
 また、「千代田区観光協会」のページでは「初代市川猿之助が珍しい名字の喜熨斗(きのし)で、本名が亀次郎」との紹介もあり、情報が重なるようにも思える。

 ただ、気になるのは次の二点だ。
 その一つは、「千代田区観光協会」のページでは、初代猿之助は「浅草生まれ」とされる事だ。
 もう一つは、名字「喜熨斗(きのし)」は、初代猿之助の父である坂東三太郎が、六代目坂東三津五郎の門人であった縁で、坂東家の屋号の1つ「喜の字屋」と替え、紋の熨斗模様から生まれたという解説も見るということだ。
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# by shingen1948 | 2018-01-09 10:30 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_1054036.jpg 浅川地区の散歩資料では、「初代市川猿之助の母の墓」が、この溜池の土手にある事を中心に紹介される。
 この浅川地区は、かつてはとても芝居が盛んだったそうだが、喜熨(きのし) 三太郎秀房一座に負うところが多いとする。特に仙台藩の伊達氏にひいきにされていたとのこと。その三太郎の妻は嘉永5年(1852)12月25日に道坂で病死し、この地に葬られたという。法名は空江山智明善女とのこと。
 三太郎は、残された亀次郎(2歳)を連れて江戸に出たのだが、この亀次郎を苦労して歌舞伎役者に育てたという。それが、初代市川猿之助だとする。

 こちら側からは立ち入り禁止になっているが、南側の民家の左側から登っていくとは可能らしい。
八丁目宿の情報では、この南側の民家が三太郎喜熨(きのし)秀房一座の本拠地というふうに紹介されるが、こちらの紹介ではあくまでも「初代市川猿之助の母の墓」がここにあるという感じの紹介だ。

※ 前回の「浅川、松川散策の写真メモから34」の整理に「~八丁目宿と喜熨(きのし) 三太郎秀房一座」を付け加え、今回の「浅川、松川散策の写真メモから35」の整理は、「浅川と喜熨(きのし) 三太郎秀房一座」とする。
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# by shingen1948 | 2018-01-07 10:55 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_9193652.jpg これは、福島医大側から看護寮の方向を撮った写真だ。
 この写真を撮った時点で興味があったのは、右手に写る溜池だった。浅川村の中心的な集落の一つが、中沢渠の開発とかかわるようなのだが、この溜池は、その地域への潅水とかかわっているようなのだ。

 今、この写真を見直しているのは、その溜池の右手の丘への興味だ。
 先の八丁目宿散策で、その八丁目文化情報にこの丘とかかわるのではないのかなと思われる情報を得たからだ。
 「松川のあゆみ」の八丁目文化で、芸能活動にかかわる地芝居について次のような紹介がある。

 芸能活動としての地芝居興行には、原則的には領主代官の許可を必要として厳しかったのだそうだが、実際には、幕末にはその禁制も緩んで急激に盛んになったとそうなのだ。
 八丁目宿の菅原神社や諏訪神社の祭礼には、この地芝居興行が大層人気があったのだとか。その中でも特に人気だったのが、「三太郎」喜熨(きのし)秀房一座で「三太郎芝居」と言われていたそうだ。その芸は、仙台公のおほめに預り、その藩士の息女を媒酌されたりする程だったのだそうだ。
その一座の足跡は一関にまで及んだという。その後、この一座は江戸にまで上ったのだそうだが、その子が初代市川猿之助になったというのだ。

 この金谷川地域の散歩資料を確認していたら、この溜池の土手の南側に「浅川芝居一座」の本拠地があったという情報があった。
 その情報を何となく確認していたら、「松川のあゆみ」がいう「三太郎」喜熨(きのし)秀房一座の情報と重なるような気がしたのだ。

 「その子が初代市川猿之助」という部分の確からしさは知らないが、どちらもそのかかわりを強調するという共通点がある。
 少なくとも、この溜池の土手の南側に八丁目宿で人気の「三太郎」喜熨(きのし)秀房一座の本拠地があったということではあったようなのだ。
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# by shingen1948 | 2018-01-05 09:24 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)