地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
 今回の散策でよく見てきたかったのは「薬師堂」だ。その主たる理由は小笠原國太郎氏とのかかわりだが、医王寺の奥の院としての「薬師堂」の雰囲気を感じたかった。

 その事ことについては、「亀岡邸の大工棟梁は小笠原國太郎⑧:福島の建築(12の2)」の中に記している。ただ、この記事の「薬師堂」の写真は、自分の撮った写真ではない。その写真を入れ替えたいということで、今回の散策の趣旨はこの時と変わらない。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23443238/
a0087378_7145114.jpg そもそも医王寺の「医王」というのは、辞書的には、医師が病人を救うように、仏法を説いて人の悩みをいやすところから、仏・菩薩のことを意味するとのこと。薬師如来の異称という意味もあるようだ。(デジタル大辞泉)
 その「薬師如来」を確認すると、その正式名は「薬師瑠璃光如来」といい、また「医王善逝」・「大医王仏」とも呼ばれ、きわめて現世的な病気を治す功徳のある仏としているようだ。

 これらの予備知識を頭において、改めて「医王寺」を確認する。
 ここは、「真言宗の寺院で、山号は瑠璃光山。中世初期に信夫郡を支配した佐藤氏の菩提寺」とのことだ。
 その山号が、「瑠璃光山」とのことで、この薬師如来にかかわった号であることをイメージさせる。
 つまり、この「瑠璃光山」という山号は、「大鳥城記」がいう医王寺「奥の院薬師堂」ということと、「平野の伝承とくらし」がいう「鯖野薬師堂」の「薬師瑠璃光如来が鎮座する地」とかかわっているということなのではないかと、勝手に想像する。

 この医王寺本堂には本尊として大日如来が祀られているそうだが、この「薬師瑠璃光如来」も寺にとって重要な仏様なのではないかという事だ。

 そういう視点から、明治37年(1904)に焼失した「奥の院薬師堂」を、大正4年(1915)12月に竜和和尚が大勧進となり再建されるという事業は、その本来的な意味とかかわっているのではないかというという見え方だ。

 なお、帰り際に、主たる目的である小笠原國太郎氏と医王寺のかかわりを頭において、案内所でいくつか訊ねてみた。
 まずは、医王寺本堂の大改修があったかどうかということ。それに大正4年(1915)の「奥の院薬師堂」再建の大工さんにかかわる情報をお持ちかということ。
 そのどちらも回答いただけなかったので、次に大工さんのかかわりを確認する方法はないかどうかも訊ねてみた。こちらの回答も得られなかった。
 医王寺と小笠原國太郎氏とのかかわり確認という意味では今回も空振りだったが、散策としての満足感は十分にあった。
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# by shingen1948 | 2017-06-23 09:09 | ★ 季節便り | Comments(0)
 寛文4年(1664)信夫郡と伊達郡が上杉領から天領となった時点で、後ろ盾が弱まったことが想像できる。
 「奥の細道臨地研究資料(福島県教育センター)」では、芭蕉が訪れたという元禄2年(1689)には、医王寺はわびしい古寺でしかない景色になっていたのではないかと想像していることと符合する。

 そんな中、「亀岡邸の大工棟梁は小笠原國太郎⑦:福島の建築(12の2)」で整理したように、この寺は何度も火災に遭っては再建されるということを繰り返しているようだ。
 「大鳥城記」によると、現在の立派な本堂や庫裏は、文化2年(1805)に建てられたものと推定されているようだ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23441079/

 その本堂の右側に位牌殿がある。
a0087378_614520.jpg ここに佐藤一族の位牌が安置されているという。その両脇に、昭和37年に作成された右に継信の妻「若桜」と左に忠信の妻「楓」の武将の装いをした像がたっている。

 「平野の伝承とくらし」に、「奥の細道」の平野地区にかかわる本文を児童向けに現代の文に直したものがある。
 その医王寺の部分は次のように訳されている。
 「また、直ぐそばの古寺には、佐藤庄治一族の石碑が残っていました。中でも二人の嫁(継信・忠信の妻)のしるしはあわれな話です。女ではあるが、かいがいしいふるまいにまた涙を流しました。
 寺に入ってお茶を飲むとここに義経の太刀・弁慶の背負った笈があり、寺の宝としています。
 笈も太刀も五月にかざれ帋幟(かみのぼり)」

 しかし、「奥の細道臨地研究資料(福島県教育センター)」によると、ここにはいくつかのフィクションがあるという。
 その一つは、「曽良日記」と照らし合わせると、芭蕉一行は寺に立ち寄っていないのではないかという。
 寺に入ってお茶を飲んだり、寺の宝を観たりはしていないのではないかと想像されるらしい。
 その二は、他の医王寺を訪れた方の記録や「曽良日記」からは、この時代の医王寺には「二人の嫁(継信・忠信の妻)のしるし」の存在が確認できないという。
 「曽良日記」からは、宮城県白石市の甲冑堂に立ち寄ったことが分かる事と、ここには当時2人の像があったらしいことが伺えるという。
 このことから、「奥の細道」本文ではここの像を医王寺の場面に挿入したフィクションだろうとされているようだ。

 「奥の細道」のフィクションの世界が、あたかも現実にあった世界かのように感じられるように環境が整備されている。

 なお、その甲冑堂に散策で立ち寄った事については、先に「斉川宿③~甲冑堂」と「斉川宿④~坂上田村麻呂伝説と共存する甲冑堂」で整理している。
 〇 「斉川宿③~甲冑堂」
 http://kazenoshin.exblog.jp/8341623/
 〇 「斉川宿④~坂上田村麻呂伝説と共存する甲冑堂」
 http://kazenoshin.exblog.jp/8346063/
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# by shingen1948 | 2017-06-22 09:57 | ★ 季節便り | Comments(0)
 先に確認したように、今年になって散歩で医王寺へ出かけたのは2017/4/27のようだ。
 地元の散策資料では「医王寺」についての確認をしているが、もうちょっと引いてwebで確認してみる。
a0087378_948459.jpg ウィキペディアでは「真言宗の寺院で、山号は瑠璃光山。中性初期に信夫郡を支配した佐藤氏の菩提寺」と紹介され、地元の紹介と変わりない。その沿革についても、ほぼ地元の資料で確認できることだが、その中興にかかわる紹介の一部は、地元の資料ではふれられていない。
 それが、(寺の縁起によれば)「寛永期に福島真浄院の快翁が『重興す』と記されている」という部分だ。「増補 大日本地名辞書 奥羽【富山房(1988年)】」を参考文献に挙げている。

 まだ確認していなかったが、別資料で上杉時代医王寺は信達惣奉行 平林蔵人によって 寺領30石が寄与されているという情報はみていた。この情報と重なるような気がしている。
 というのは、快翁は福島真浄院を慶長5年(1600)に中興開基するのだが、この方は、米沢藩の平林正恒氏の弟ということのようなのだ。
 この平林正恒氏が、信達惣奉行 平林蔵人氏だ。

 平林正恒氏を確認すると、次のような経歴のようだ。
 元々は武田氏家臣で、信濃国の平林城城主を勤めていたが、天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、上杉景勝に250石で仕えるようになる。
 その後、直江兼続に算勘を認められて1000石を給される。慶長3年(1598)の上杉景勝の会津移封によって白河小峰城(5360石)に移り、慶長6年(1601)には福島城二の丸に入り、伊達・信夫両郡の奉行となる。
 慶長13年(1608)には春日元忠の後を継いで郡代と奉行を兼ねた執政となり、直江の下で藩政諸般を統括した。

 上杉氏が会津から米沢に移封後も、信夫郡と伊達郡が上杉氏の所領の時代は続いている。それは、信夫郡と伊達郡が江戸幕府に召し上げられて一時的な天領となる上杉綱憲家督相続時(1664)まで続く。
 福島真浄院の快翁が重興したとする寛永(1624~1645)時代は、信夫郡も伊達郡も上杉氏所領の時代だ。
 まだ確認はできていないが、矛盾はなさそうではある。
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# by shingen1948 | 2017-06-21 09:50 | ★ 季節便り | Comments(0)
 現農業総合センター果樹研究所内となる福島県生活改善展示実験室は、小字下原で、その北面の道筋が、その小字下原と小字田下との字界道になっている。
 その小字田下と小字北原と続く集落と接する小字下ノ壇、上ノ原、中原との字界道を進む。

 その道筋が、小字道添との字界まで進むと、医王寺前から「医王寺が案内される小字道添と字界道に出て、ここから医王寺まではお馴染みの道筋を進むことになる。
 この道筋は、先に「飯坂古道探索道草「奥の細道」~五郎兵衛館跡から医王寺」として整理した道筋だ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/5544425/
 ただ、この時には、芭蕉は星の宮から河岸段丘の道筋をたどってきたという説が頭にあって、その河岸段丘から続く道筋というイメージで整理している。
 しかし、地図を眺めてみると、この道筋東の六角から平野地区でいわれる瀬上道のすぐ北から続く道筋だ。しかも、医王寺付近は細長く小字道添に接している。古道と称されてはいないようだが、字界の古い道筋のような気がする。
a0087378_924079.jpg 2007年5月7日に「飯坂古道探索道草「奥の細道」~五郎兵衛館跡から医王寺」として整理した時点では、この道筋を進むとお地蔵様に突き当たった。
 ここを右折して医王寺に辿り着くのだが、この突き当たった道筋が、飯坂古道の西街道の道筋だ。


a0087378_925677.jpg この飯坂古道の西街道と交わる地点を、西街道側から2012年5月14日に撮った写真を見ると、お地蔵さまがなくなっている。


a0087378_9261055.jpg
 これは、その角を2017年4月27日に医王寺駅方面から撮った写真だ。
 
 どうでもいいことだが、この地点のほぼ10年間の定点変化。
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# by shingen1948 | 2017-06-20 09:28 | ★ 季節便り | Comments(0)