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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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森鴎外と福島35

 鴎外氏が求めた「抽斎ノ親戚並ニ門人」及び「抽斎の学説」の題での起稿に、しっかり応じることができる抽斎氏嗣子渋江保氏というのはどんな方なのだろうということが気になる。
 「渋江抽斎(森鴎外)」をその視点で眺め直す。

 渋江保氏と出会うきっかけになるのが、東京在住で渋江氏と交わった飯田巽(たつみ)氏と郷土史家として渋江氏の事績を知っている戸崎覚氏だが、この方々が「その4」で紹介される。
 「その5」で「道純(=抽斎と号)の娘さんが本所松井町の杵屋勝久であり、その杵屋には渋江終吉という甥がいて下渋谷に住んでいることが分かる。
 「その6」で鴎外氏は戸崎覚氏を訪ね、ここで抽斎氏嗣子渋江保氏を知る。
 「その7」で、鴎外氏が得ていた渋江保氏にかかわる情報が紹介される。ただ、この時点では保氏の所在は不明だった。
 また、飯田巽(たつみ)氏からの手紙で、渋江氏の祖父の墓の所在、現存している親戚交互の関係、家督相続をした叔父の住所等の情報を得る。
 その情報の中で、保氏の住所が今の牛込船河原町であることを知る。
 「その8」で渋江氏の墓探しがあって、そして「その9」で保氏と対面する。
 そこで氏の概要について紹介されるのだが、ここでは「渋江抽斎没後の渋江家と帝国図書館(藤元直樹)」から保氏のプロフィール情報をお借りする。

 安政4年(1857)江戸生まれ、医家であった抽斎の遺したプログラムに従い学問を修め、その幼年時代を過ごしていく。
 明治元年(1868)、維新の騒乱の中で本国である弘前へと移り、若くして藩の助教となった保氏は、医者ではなく、漢学者の道を歩みはじめる。
 時節柄、藩の支給する禄は減っていくばかりであったため、英学によって身を立てることを決意し、明治3年(1871)上京、尺振八の共立学舎に入門する。わずか1年で編訳書を出版する早熟ぶりを見せる。
 明治4年(1872)師範学校へ第1期生として入学し、明治8年(1875)に卒業。浜松へ赴き教師として活躍するが、明治12年(1879)東京に戻り、慶應義塾に学び研鑚を積む。明治14年(1881) に卒業すると、再び愛知で教師となるが、1年で再び東京に戻り、 攻玉社と慶應義塾で教壇に立つ。
 明治17年(1884)には「東京横浜毎日新聞」の記者となるが、体調不良を理由に明治18年(1885)遠州周智郡へ退隠する。 翌年、静岡に移り教師としての活動を再開し、さらに「東海暁鐘新報」に招かれ主筆となる。
 明治21年(1890)には再び東京へ出て、書肆博文館の求めに応じ、矢継ぎ早に様々な 著作を書き下ろして行く。
 この辺りの事情について「渋江抽斎」(その112)で、次のように紹介していることが記される。
 「しかし最も大いに精力を費したものは、 書肆博文館のためにする著作翻訳で、その刊行する所の書が、通計約150部の多きに至つてゐる。其書は随時世人を啓発した功はあるにしても、概皆時尚を追ふ書估の誅求に応じて筆を走らせたものである。保さんの精力は徒費せられたと謂はざることを得ない。そして保さんは自らこれを知つてゐる。 」
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# by shingen1948 | 2017-02-25 10:56 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

森鴎外と福島34

 前回は、津軽地方の医学史、疾病史という地方史の研究に、「渋江抽斎(森鴎外)」の史伝を主要な資料の一つとして活用しているという観点から整理した。
 地方史研究の主要な資料となり得るのは、松本清張氏の指摘のように資料提供者の資料にフィクションの手法をほとんど施していないからだろう。
 その資料提供者というのが抽斎氏の息子である渋江保氏だ。

 鴎外氏は、史伝「渋江抽斎」執筆のため、抽斎氏の息子である渋江保氏に「抽斎ノ親戚並ニ門人」及び「抽斎の学説」の題で起稿を求めたという。
 それに保氏が応じて、抽斎の親戚6人と門人10人についての回想的伝記と「抽斎の学説」をおくったとのことだ。これが、鴎外文庫「書入本画像データベース」の「抽斎の親戚、幷(ならび)に門人(渋江保著)」で確認できる。
 http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/H20_555.html

 まずは、松本清張氏の指摘と資料の関係を確認しておく。
 「森鴎外と福島32」でふれた松本清張氏の指摘は、「両像・森鴎外(松本清張)【文芸春秋社1994年】」に、「最高傑作と誉れ高いこの史伝は、実は、鴎外が抽斎の子保に依頼して書いてもらった原稿用紙百数十枚からなる資料・覚書をほとんど丸写しにしたもので、彼自身の創作は微塵も無い」と言った一戸務の資料報告の存在の指摘のようだ。
 この松本清張氏の著作も、鴎外文庫「書入本画像データベース」の参考文献として挙げられているが、ここに「鴎外作『渋江抽斎』の資料(一戸務)【文学1巻5号1933年8月】」もある。これが、その「一戸務という人の論文」というものに該当するのだろうと思われる。
 一戸 務氏を確認すると、作家で中国文学者のようだ。
 明治37年(1904)東京生まれ東京帝国大学支那文学科卒。昭和4年(1929)第10次「新思潮」に参加、後に「文藝レビュー」に参加して小説を書く。文部省勤務。戦後、和洋女子大学教授とある。

 ここに【翻刻:松本明知『森鴎外「渋江抽斎」基礎資料』日本医史学会1988年】とあるのが、「森鴎外と福島33」で確認した津軽地方の医学史、疾病史の研究とかかわる。
 松本明知氏が鴎外氏に提出した「抽斎親戚並門人」と新たに発掘した渋江保氏の日記(明治元~3年)を活字化翻刻したものようだ。
 「抽斎親戚並門人」が活字化されたことの他に、日記の発見によって以下のように史伝の研究にかかわる事の外、藩医としての渋江抽斎を巡る幕末の弘前藩の医学史にかかわる事も明らかになったという情報も見る。
 ① 維新の混乱時に抽斎没後の渋江一家が江 戸から弘前へ引き揚げた日時,経路などの詳細が 知られた
 ② 渋江抽斎は弘前藩の秘薬「津軽 一粒金丹」の製造を許された数少ない藩医の一人であったので、この関係の史料を鋭意探索した結果、抽斎自筆の秘伝書と渋江家で用いていた「津軽一粒金丹」の薬袋を発見した。
 ③ 秘伝書は伝授された者が次ぎの伝承者へ筆写して渡すことも明らかになった。
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# by shingen1948 | 2017-02-19 06:39 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

森鴎外と福島33

 「森鷗外と『北游日乗』・『北遊記』 ―函館,青森を中心として―(松本明知)」の序にあたるところに、「渋江抽斎(森鴎外)」の史伝を主要な資料の一つと位置付けて、津軽地方の医学史、疾病史の研究にまで深めていることが簡潔に紹介されている。
 具体例を拾う。
 例えば、松木明氏が、昭和28年(1953)頃から「渋江抽斎(森鴎外)」の史伝を資料として、津軽の医学史の研究を開始しているという。そして、昭和42年(1967)には「渋江抽斎 人名誌(孔版)」を上梓し、昭和56年(1981)にはそれを改訂して津軽書房から出版しているという。
 その過程において、鷗外氏が、渋江抽斎氏にかかわって弘前の北辰日報の記者であった中村範に宛てた書簡6通が見出されたり、抽斎氏の孫の渋江乙女氏が青森市浅虫在住である事が分かったりしたとのことだ。

 津軽地方の医学史、疾病史の研究に直接的にかかわるのは、史伝の中に出てくる「直舎伝記抄」なのだそうだ。これは、抽斎の編になる弘前藩江戸屋敷の宿直医官の日誌なそうだが、その原本とも言うべき宿直医官の日誌は1冊も現存していないという。その意味でも、この「直舎伝記抄」は貴重な資料なのだという。
 また、このことからは、抽斎氏が弘前藩の医学の歩みに関して何らかの著作計画があったとも推定できるとしている。
 内容的には、それまで全く伝が不詳であった弘前藩江戸定府の医官桐山正哲の事績が、この「直舎伝記抄」によって明らかになったという。この桐山氏は杉田玄白氏が「解体新書」を翻訳した時の仲間の一人であったが、本草学に詳しく弘前藩江戸屋敷で本草学の講書を行っていることが明らかになったのだとか。

 「直舎伝記抄」 は一地方の医学史的資料にとどまらず、全国的な医学史研究にとっても主要な資料であることも強調される。江戸時代の藩の宿直医官日誌が遺されている例がないとのことだ。

 鷗外氏が借覧したのは、富士川游氏が所蔵していたこの資料なそうだ。
 ただ、鴎外氏が借覧したのは8冊とのことだが、その現存が確認できていたのは慶応大学医学部北里記念図書館所蔵小型本6冊で、2冊の所在は不明だったという。
 後に、松本明知氏は、その2冊の資料の写本が渋江乙女氏宅に秘蔵されていることを知り、漸く許可を得て、昭和60年(1985)に「直舎伝記抄」を出版したとのことだ。
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# by shingen1948 | 2017-02-13 09:11 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

森鴎外と福島32

 「森鴎外と福島29」で、「渋江抽斎(森鴎外)」や「伊藤蘭軒(森鴎外)」などの作品に登場する探索方法を追試されたり、地域資料を元に作品の補強資料を探し出したりする散策情報についてふれた。

 その情報の一つが、「日曜スケッチ散歩」というページだ。
 http://aki.art.coocan.jp/frame-top.html
 このページについては、先に「『伊沢蘭軒(森鴎外)』と福島④」と「『伊沢蘭軒(森鴎外)』と福島⑥」で、「日本種痘の恩人」にかかわる情報でふれている。
 「『伊沢蘭軒(森鴎外)』と福島④」では、池田京水氏にかかわる墓地探しの追体験についてふれた。
 この方は、「渋江抽斎」の読後に「ルーツを訪ねて 江戸の疱瘡医 池田京水とその一族(中尾英雄)【平成7年自費出版】」という冊子に出会い、池田家宗家の前に、池田京水氏の墓参りをしたのだということだ。
 この著者中尾英雄氏は、池田京水氏の末裔にあたる逗子市で耳鼻咽喉科を開業されている方とのことだった。
 ただ、この池田京水氏の末裔の方の情報は後で気付いたので、「『伊沢蘭軒(森鴎外)』と福島⑥」の方にされている。
 こちらで整理した墓地探しの追体験は、「池田瑞仙の墓」から池田家宗家にかかわる情報を整理した。
 福島市大町在住の池田家宗家末裔鑑三郎氏と直接的にかかわる池田家宗家の合墓はこちらで、鑑三郎氏が明治30年に谷中墓地に建てた事が「伊澤蘭軒」の作品の中に確認できる。

 「渋江抽斎(森鴎外)」その8で、鴎外氏は渋江抽斎の墓探しもするのだが、こちらも追体験して作品にしているようだ。
 その中で気になったのが、松本清張氏が次のように指摘していると紹介される部分だ。
 最高傑作と誉れ高いこの史伝は、実は、鴎外が抽斎の子保に依頼して書いてもらった原稿用紙百数十枚からなる資料・覚書をほとんど丸写しにしたもので、彼自身の創作は微塵も無い、と言った一戸務の資料報告の存在を松本清張は指摘している(『両像・森鴎外』文春文庫)。

 まだその指摘の原文を確認していないが、松本清張氏のこの指摘からは、これらの作品を小説として見ていることが明らかだ。
 しかし、「森鴎外と福島30」と「森鴎外と福島31」で整理したように、鴎外氏はこれらの伝記を小説として仕上げようとしたのではない。この作品の良さは、「渋江抽斎」像を明らかにしようと学問的に追及していることなのだろうと思うのだ。

 この散策者も、「私も(この作品を)最高傑作と考える。何故と云うに、それは鴎外がいなかったら、この史伝は世に存在しなかったからである。鴎外先生、心配御無用!!これは間違いなく後世に残る名作ですよ」と記すが、こちらに同感だ。
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# by shingen1948 | 2017-02-12 09:23 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)