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地域の人々が伝える祈る心~清水町宿「阿弥陀堂」


 ここには、先に清水町宿の一風景として立ち寄っている。
 ただ、この時には、案内柱に誘われて立ち寄っただけで、この阿弥陀堂も、この「地域の人々が伝える祈る心」の話とかかわることを意識していなかった。この庵の別名が「塞耳庵」とされることは聞いていたが、それまでだった。

 この「塞耳庵」という名称が、この地区のその道に通じている人にとっては、無能上人とのかかわりをイメージするということだ。

 ということで、あらためて訪ねてみた。
 案内柱には解説がなかったが、この「阿弥陀堂」は、「信夫郡仏堂明細帳」では、延宝元年(1673)3月28日建立。佐藤清右衛門持ち、曹洞宗仲興寺持受け持ちとあるらしい。仲興寺は、この清水宿のお寺だ。
 土蔵造りの仏堂は、昭和29年に再建されたものらしい。

 その土蔵造りの仏堂前に名号塔が建つ。
 表面と裏面の両面に名号が刻まれているのだが、手持ち資料に「明和6年(1758)8月15日願主然蓮社良成天阿暢音による百万遍一万座供養塔造立される。この正面の名号は別人のものだが、裏面は無能の花押入りの名号が刻まれる。」とあるものだろうと思う。


 これが、その裏面で、無能の花押入りの名号が刻まれるとされる名号だろう。



 無能の花押入りというのが、この部分なのだと思う。 



 「当地ゆかりの人物の墓標(正徳・享保・元文)も数基確認できた。」というのが、こちらだろうか。
 この確認とかかわるのが、佐藤家に伝わる縁起(宝暦8年(1758)8月当庵現住戒心の作)標題「奥州信夫郡清水町塞耳庵之縁起」にある以下の部分らしい。

 〇 延宝元年 芝増上寺出身の旅僧安心開基。(泰心庵)
 〇 元禄5年(1692)上州から達山という僧が奥羽地方行脚、衰退したこの旧庵に庵を結ぶ(選仏庵)
 〇 享保5年(1716)信州高遠の僧縁知が無能の徳を慕ってこの地に来たり、随身給仕したりした。この淨業に感銘した佐藤半右衛門が、旧庵の地に小堂を再建し、この縁知を請じた。
 元文元年(1736)10月縁知没

 資料で、曖昧で確認が取れないというのが、以下のことらしい。
 〇 この間に、庵を現在地に移し、新たに3尊を講じ、48夜別時念仏を開白するとともに、二本松大運寺を本寺と定めて、庵号を「「塞耳庵」と定める。
 〇 縁知没後、元文2年3月、半田村の善之丞こと直翁が移住、居住数年一生をここで了える。
 特に、半田村の善之丞のくだりは明らかに違うというのは、自分でも確かめられる。

 ここで大切にしたいのは、その位にこの戒心という方が、無能上人との縁を結びたいと思っていたこととそれを地域の方に伝えたかったという熱意の部分なのではないのかなと思う。

# by shingen1948 | 2012-05-27 05:28 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Trackback | Comments(0)

大河ドラマ「平清盛」視聴~第20話「前夜の決断」

 前週14・7%と回復した視聴率が、再び11.8%とか。
 ただし、我が家では、権力闘争における複雑な関係図が話題になるようになって、とりあえずチャンネル権を争う状況にはない。
 この背景は、複雑な人間関係の分かりにくさなどということにとどまらず、平清盛の人間像そのものに魅力を感じていないということなのかもしれないと思える。
 その風潮作りに貢献したのが、勝者の視点で描かれた「平家物語」という事だろうか。
 その主として正義の源氏の敵の悪役として描かれてきた平清盛を、このドラマでは、天皇から政権を奪い、その後約700年間も続いた武士政権の礎を築いたことにスポットを当てて描くという視点変更にかかわる不人気なのかもしれないとも思う。

 ただ、この東北の地に住んでいると、このような敗者の侮蔑化が行われる物語を参考にしても、その侮蔑化や正義感は弱まって感じられる。というのは、その正義の勝者は、必ず手に入れた権力を振りかざして、この郷土の平和を脅かす侵略者となるという史実が提示されるからだ。

 ドラマを楽しむヒントをいただいている「坂の上のサイドボード」からは、平家側の事情を参考に楽しませてもらう。
 その一つ、清盛の叔父の平忠正の話。
 「忠正は、若い頃は兄の平忠盛と共に鳥羽院に仕えていたが、何らかの理由で鳥羽院より勘当となり、以後は藤原忠実、藤原頼長父子に仕えて立身した。」「鳥羽院の信任が厚い忠盛や清盛とは、早い段階から対立関係にあったようだ。また忠正の子・平長盛(ドラマには出てきていない)は崇徳院に仕え」という部分。
 その二が、清盛の決断の迷いにかかわる話。
 「実は伊勢平氏は崇徳院とも深い関係があった。崇徳院の皇子で後白河院と帝位を争った重仁親王が11歳で元服したとき、父・忠盛と正妻の宗子(池禅尼)が重仁の乳父・乳母になっていたのである。」という部分。
 検非違使である清盛の次男・平基盛が、崇徳院方に参陣しようとしていた大和源氏の源親治(宇野親治)を逮捕したことが、後白河帝に味方する意志を明確にしたことにほかならないことであること。

 家族の中での話では、ドラマで平忠正の行動は血を絶やさぬための方策だとするのにも説得力を感じていたが、こちらの選択の余地などなかったというのにも、説得力を感じる。
 そんな中、鳥羽院の恩顧に報いるか、崇徳院との縁故を優先するのか、迷いに迷った清盛が後白河帝方への参陣を決断したという話が深まった気がする。

 第20話「前夜の決断」の要点を「エキサイトドラマ特集『大河ドラマ平清盛』」からお借りする。
 保元元年、崇徳上皇(井浦新)と頼長(山本耕史)は、虐げられし者同士、共闘しつつあった。そんな二人に謀反の疑いをかけ、信西(阿部サダヲ)は武士たちに後白河方につくように命を発する。為義(小日文世)は崇徳・頼長側につく。清盛(松山ケンイチ)は上皇側天皇側どちらにもつかないと表明する。一方、義朝(玉木宏)は、為義を裏切り、天皇側につく。なかなか決断をくださない清盛を後白河は屋敷に呼び、ふたりだけの話し合いが始まる。後白河はたとえ勝っても武士の思うような世などこないと、清盛に言うが、本心は別のところにあるようだった。それを悟った清盛は、後白河が“自分と互角に渡りあえるところにのぼってこい”と言っている、だから天皇方に平家はつくのだと一門に伝える。だが、家盛(大東駿介)の弟である頼盛(西島隆弘)は、天皇方につくことを迷っていた。そんな頼盛の前にあらわれたのは…

# by shingen1948 | 2012-05-26 04:52 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Trackback | Comments(0)

地域の人々が伝える祈る心~飯坂「念誉山満願寺」②


 ここを、信達33観音12番札所と意識すれば、気になるのは観音堂を中心とした風景になる。
 それが、「地域の人々が伝える祈る心」の飯坂「塞耳庵」とのかかわりを意識すると、この地蔵と石塔群の風景の方が気になるようになる。

 今回の震災のためだろうか、幾つかの石塔群が倒れたままになっている。1年以上たってもその影響を引きずったままだが、石塔群が倒れる前の風景は、飯坂「塞耳庵」と似ていたと思う。

 素人目には、倒れている石塔の方は、形状的にも飯坂「塞耳庵」のそれと似ているように思う。脇に、〇十八夜塔が見える。
 浄土宗寺院では、「十夜講」の念仏会が広く行われていると聞く。
 陰暦10月5日の夜から15日の朝まで10日10夜にわたる阿弥陀さまのお慈悲に感謝する法要で、10日10夜法要とも。この法会は、浄土宗で最も大切な経典の一つ「無量寿経」の巻下に、「この世において十日十夜の間善行を行うことは、仏の国で千年間善行をすることよりも尊い」と説かれていることによって、その教えを実践したものとか。そういう講との習合だろうか。

 立っている方の名号塔は、形状的には飯坂「塞耳庵」のそれとは違うのだが、気になるのは下方に花押らしきものが見えるような気がすることだ。脇に、文政5年(1822)女人講中が見える。

 この風景の後ろが、名号塔群になっている。

 その中のこの名号塔は、先の名号塔と字体は違うのだが、気になるのは、下方に花押らしきものが見えるような気がすることだ。裏に年の部分が欠けているが、「5月6日弟子法全」が読める。

 ここを整備されていた方に、「御朱印かい。」と声を架けられた。
 名号塔の興味を伝えると、いろいろお話しいただいた。その中で、「飯坂「塞耳庵」」にかかわって「ゴアンの地蔵様」という言葉と、その庵のお世話の様子をお聞きすることができた。
 また、観音堂に安置される像の話では、阿弥陀仏座像が、この寺の御本尊でないかなぁという言い方をなされ、見てみるかいと誘われた。単なる散歩人としては、恐れ多いのでやめておきますとお断りした。
 こちらの予備知識としては、安置されるのは、中央に本尊厨子、十一面観音、法然上人像とのことと、その他の像が、「信達33札所観世音霊場」では地蔵とし、「信達33観音のみち(村井幸三著)」では、阿弥陀三尊( 阿弥陀如来を中尊とし、その左右に左脇侍の観音菩薩と、右脇侍の勢至菩薩を配する三尊 形式)で、厨子に阿弥陀仏座像とするという程度。
 なお、毎月24日は、この観音堂は開けておくとのこと、講のかかわりか、仏事との係わりかはわからない。

 後ろは、庚申塔群で、100庚申塔という言い方を聞く。

# by shingen1948 | 2012-05-25 12:36 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Trackback | Comments(0)

地域の人々が伝える祈る心~飯坂「念誉山満願寺」

 地域の人々が伝える祈る心の整理に戻る。
 大鳥城址から、大手門の石碑を経由して、飯坂塞耳庵とのかかわりで、満願寺へ向かう。
 途中、震災で崩れた温泉集会所は整地され、共同浴場大門の湯の駐車場になっていた。

 ここは、先に、「天王寺の散歩」で、信達33観音12番札所を意識したという経緯の中で「飯坂散歩⑳:満願字観世音」として、整理している。
 その中でイメージした満願寺の配置を確認すると、この観音堂の北側に、別棟の籠り堂があり、その籠り堂の南側に小堂があって、その奥に仏間がある建物があるという配置だったとのことだった。その堂前に札張堂があったとか。<「信達33札所観世音霊場」より>
 この満願寺は、明治13年の飯坂大火で焼失して、観音堂だけになったという経緯のようだ。

 その散策で、この満願寺が、念誉山満願寺岩城専称寺末寺「信達両郡寺社院」ということを確認している。しかし、そのことが、今回の「地域の人々が伝える祈る心」とかかわることを理解していなかったらしいことが分かる。
 岩城専称寺は、浄土宗名越派奧州総本山の寺院であり、名越檀林傳宗道場の寺あるということを認識することで、この風景の見え方が変わるようなのだ。
 
 その岩城の専称寺の寺伝「梅福山主歴代」には、「13世 良実 真蓮社霊達 同州信夫郡満願寺開山 明暦3年7月23日寂」とあるとのことだった。これは、正式にその末寺とされているということになるということだ。開山者が明暦3年(1657)に亡くなられていることからは、この寺の開山はそれ以前の推定が。

 その明暦3年(1657)年代を確かめる。
 先の飯坂「塞耳庵」の良照不能開創は、元文5年(1740)9月だ。それと比べると、それよりも83年以上古くから歴史を刻んでいたということのようだということが分かる。
 無能寺とかかわる無能上人は、1683〜1719の方だから、それよりも古い時代だ。

 このことから、飯坂「念誉山満願寺」の視点で経緯を確認する。
 明暦3年(1657)飯坂「念誉山満願寺」は、浄土宗名越派奧州総本山の末寺寺院として歴史を刻む。
 その経過の中で、同じ名越派の無能上人が強烈な念仏のブームを起こし、その無能上人が入寂後、その弟子の不能が無能上人の徳をあがめて享保20年(1735)2月に「無能寺」と改称し再興される。
 その不能上人が、元文5年(1740)9月に飯坂「塞耳庵」に住するようになる。同じ浄土宗名越派の寺院であることから、この寺との交流があったのではないかと想像する。 
 それらの経緯の後、この寺は、宝暦7年(1757)に桑折無能寺の支配下に入るということなのだろう。

 更に、この名越派の特徴が一念業成を説くことであり、一念の念仏で往生が決まるという教えだったらしいという概観を付け加えておくことで、「地域の人々が伝える祈る心」としての風景が、より見えやすくなるということのようだ。

# by shingen1948 | 2012-05-24 05:31 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Trackback | Comments(0)

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