地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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a0087378_97563.jpg これは、2008年春の中町丁字路西側付近の様子だ。
 この辺りの風景は、これ以前の散策では、八丁目城跡とのかかわりで捉えていた。従って、城下街に伴う街並みとの関りを強く意識した見え方だったと思う。
 2008年~2009年あたりの散策では、その城下街とかかわる街並みという見え方から、奥州街道の八丁目宿場との見え方にしていこうという意識が強かったと思う。

 この時の主とする散策資料は半沢氏の「歴史地図」だったが、その資料では、この角に追分の阿弥陀堂と常念寺がプロットされていた。
 その情報を元に探ってはみたが、よく分からないままになっていたところでもあった。

 今回の散歩時には、常念寺跡地として公園整備されていて、案内柱も建っていた。
 「こでらんにふくしま通」では、「浄土宗の寺院でしたが焼失して、現在は『南無阿弥陀仏』と刻まれた高さ2mを超える3基の石碑が建てられています」と案内されている。
 案内柱も「こでらんにふくしま通」も名号塔を中心にした案内になっている。

 半沢氏の「歴史地図」との微妙な違いもあって、「歴史地図」では現存と案内されるのだが、焼失と案内されている。

 2008年時の散策と今回の散策とを見比べて、風景の変化は一つの関心事ではあるが、今回の整理を通して、昨日整理の中でふれた「維新館」とのかかわりも気になっている。
 この私塾は、鼓岡村名主桜内氏が自宅に創設したとのことだが、その後、ここ常念寺で展開されたという情報があるのだ。

 その師は漢詩に秀でた二本松藩士ということなので、今からみれば古い学問だと思うが、その当時、高い学識といえば漢学を極めた人というイメージがあったはずだ。
 そこで学んだ方々の紹介をみると、今まで整理してきた名主の方々や八丁目文化の担い手の方々の名が見える。
 ここで学び直しをしているという見え方もできるが、地域の文化人のサロンのような役割もあったのではないのかなと想像する。

 更には、浅川村の整理でふれた二本松藩の最上流宗統派四伝の算法印可を受けて系譜を引き継ぎ門弟1000人の金沢村丹治明斉氏、その弟子最上流宗統派五伝の算法印可を受ける尾形貞蔵氏の名も見える。
 まだ整理はしていないが、古浅川の神道無念流師範長南常蔵氏の名も見える。
 これら方々は、私塾を開いていて、多くの門下生もいる。

 「維新館」に集まった若者の学び先の選択にもなっていた可能性もあると思うのだがどうだろうか。
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# by shingen1948 | 2017-11-20 09:10 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「松川のあゆみ」で、八丁目文化の高さを自慢するのに幕末の江戸の文人粋人間で「陸奥に過ぎたるものが三つある。石に唐木に鵙の団七」と唄われたと紹介する。
 自慢話の類だが、旦那芸の域を超えて高いレベルであると自慢される「石に唐木に鵙の団七」の「鵙の団七」は、先に整理した狂歌の巨匠百舌鳥廼舎こと塩屋の通称渡辺団七氏のようだ。
 この方、画も茶も花などにも造詣が深く、とりわけ書の筆札も巧みで、特に細字に妙を得て江戸の出版業者がわざわざ版下の浄書を依頼してくるほどだったのだということだ。

 自慢話の「石」は、篆刻家の菅野普斎氏を指すようだ。天明根の人で通称次郎右衛門、伝次、伝七とも称すとある。
 「八丁目家主一欄」の天明根村と照らし合わせると、ぴったりと一致はしないのだが「松川屋治郎右衛門」がそれでないのかなと思われるがどうだろう。
a0087378_7581876.jpg これは八丁目村側から天明根村の西側を眺めているところだが、「松川屋治郎右衛門」宅は、天明根集会所のちょっと先あたりだろうか。
 この天明根村から鼓岡村にかけては、風景の変遷は勿論、水原川本流の改修や用水路の改修もあって、屋敷図から実際の位置をイメージするのが難しい。

 その篆刻家の菅野普斎氏は、二本松藩国家老丹羽守に丹羽の水晶の雅印を篆刻し、その手腕が江戸で認められ評判になったのだとか。
 明治になって、田嶋鷗僊に漢字を学び、号を鶴僊と改めたとのこと。老後は水車業を営み居を水車庵としたのだとか。
 ここに登場する田嶋鷗僊氏だが、この方は元二本松藩士で地元では有名な方のようだ。
 二本松落城の頃、鼓岡村名主桜内氏が中心となって、この方を招いて「維新館」という塾を開いたようだ。村内だけでなく、近隣の村の青年にも開放して学ばせ、近隣の学問的な水準が高まっただけでなく、やがて学校発足の礎を築くことにもなったという経緯の中心人物のようだ。

 自慢話の「唐木」は、三味線張りの名人三味線屋久米吉氏とのことだ。
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# by shingen1948 | 2017-11-16 09:56 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 狂歌の巨匠とされる排氏は、屋号塩屋で通称渡辺団七とのことだが、半沢氏の「歴史地図」によると、妓櫻経営とある。
 「八丁目家主一覧」では、その斜め向かいに三軒の金沢屋が描かれる。街道散策では参考にさせていただいている「街道Web」の「奥州街道・八丁目宿」で、「八丁目宿・中町の町並み。古い家や土蔵が散見される」と紹介される「加藤絹織物」さんの蔵辺りではないのかなと想像している。
 この風景は撮り逃しているのだが、この蔵は現在取り払われているようだ。
 http://kaido.the-orj.org/kaido/ous/32.htm

a0087378_8401538.jpg 形状と「蓮葉の枯れ果つる音聞く夜哉」の紹介と読み取れる文字とを見比べ、これが加藤紫明碑だと思う。

 八丁目文化情報と照らし合わせると、この加藤紫明という方が八丁目俳壇の中心をなす方のようだが、この方が天明根村金沢屋加藤忠兵衛という方とのことだ。
 それで、先にふれた風景と結びついているのではないかなと勝手に想像をしているところだ。

 この方は、福島の松窓乙二の門で、華憚斎別号二峯楼といい、本宮の冥々、二本松の与人らと交わりがあったとのことだ。また、五村雑誌の著があるとのことだ。
 いずれの情報も、残念ながら手持ちの知識や情報ではよく分からないのだが、その紹介から八丁目俳壇の中心的存在であったことを熱く語ろうとする熱気を感じているところだ。
 この方、文政12年3月18日、65才で没したという。
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# by shingen1948 | 2017-11-15 09:38 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 ハ丁目宿の昔ながらの屋号を掲げるのは「ますや旅館」。
 店前には、「奥州街道八丁目宿場旅人宿、枡屋銀五郎」と白地に黒く大書された看板が掲げられる。
 「八丁目家主一覧」にも、この「枡屋銀五郎」が見える。
a0087378_9193394.jpg これは、その「ますや旅館」辺りの2009年夏の風景だ。現在は、手前のスナックはなく、更地になっている。

 八丁目文化情報と照らし合わせてみる。
 この枡屋銀五郎さんは通称で、加藤候一の名で狂歌狂画をよくした方のようだ。殊に鳥羽画に巧みであったとする。
 その紹介によると桝屋さんは、呉服商を営んでいたようで、その取引は北関東に亘ったとある。

 嘉永の頃、狂歌の巨匠とされる排と伊勢参宮漫遊をなし奇行多しとの情報もある。この情報を辿ると、二代十返舎一九の「奥州一覧道中膝栗毛」と繋がるらしい。

 この一緒に伊勢参宮漫遊をなした「狂歌の巨匠とされる排」氏が、屋号塩屋で通称渡辺団七とのことだ。
 「八丁目家主一覧」で確かめると、金沢屋向かい辺りにその通称の渡辺団七が記される。

 この通称渡辺団七氏である排氏は、散文戯文にも長じた蜀山人太田南畝とも親交があったのだそうだ。十返舎一九の「金乃草鞋奥州道中」にならった二代十返舎一九の「奥州一覧道中膝栗毛」の第四編の序を百舌鳥廼舎(もづのや) 排の名で書いたとのことだが、加藤候一氏は、その挿絵も描いているのだそうだ。

 この「奥州一覧道中膝栗毛」をとりあえずネットで確認すると、早稲田大学図書館の情報がヒットする。
 出版事情に、明治14年(1881)東京府江嶋伊兵衛とあり、その内容等に「4編の序:百舌自廼屋」が記される。微妙に表記は違うが、読みは「もづのや」で一致する。
 ここから確かめを進めた訳ではないが、情報と重なる気はしている。ただ、ここまででは加藤候一画の確認はできていない。
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# by shingen1948 | 2017-11-14 09:22 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)