IE9ピン留め

州街道清水宿⑦~石那坂との交差点から③


 奥州街道清水宿の出雲神社の案内板説明にある吉次伝説について、「ふくしまの歴史」では、吉次は、義経の道案内人をした「金売り吉次」の話として伝わるとある。
 その解説では、古金山・山発田・吉次森・長者屋敷・両日森(宝を隠した場所)など、黄金伝説とかかわりそうな地名を紹介する。


 ここで、紹介される吉次の石宮は、新幹線北口上であり、これが、小林氏が石那坂の戦いとのかかわりで描く石那坂付近であり、奥大道とのかかわりでも、この吉次伝説がつながる。


 東北本線上り線は、この山から東に抜けて谷を橋で共楽公園のある丘陵縁側に渡り、鉄道マニアの間では有名な通称石那坂トンネルの方向に回り込む。東北本線上り線下り線は、新幹線の西側を通る。その道筋の多様さの風景は、この峠越えも難所の一つであろうとの想像を膨らませる。

 この奥大道は、源義経や頼朝、あるいは西行など奥州に下った多くの人々が通った道だと想像すれば、「奥の細道を歩く」散歩人が清水町宿をとばし、こちらの道筋を探ろうとした意図は分かる。ただ、石那坂古戦将士碑からそのまま共楽公園に抜けたようだ。
 それならば、回り込んだ東北本線上り線の通称石那坂トンネルの北側出口上部から丘陵上の道筋に向かったということで、この奥大道とされる道筋も奥州街道清水宿もかすらなかったということになるのが残念なことだろうか。

 自分の散歩とのかかわりでは、「気を感じて伏し拝む」の金沢黒沼神社物語に解説される東山道とこの奥大道をどう折り合いをつけるかということだ。
 このことについては、「ふくしまの歴史」で以下のように調整するのを見つけた。
 今の松川町あたりで奥大道から東に分かれて、金沢・古浅川を通って田沢村を抜け、黒岩村の学壇に上り、上ノ町から黒岩宮ノ下に下り、八郎内・鳥谷野をへて郷野目に入る道筋もありました。

 なお、先に出雲神社の旧地にかかわって、「平石神社が近くの神々を合祠したはずだが、ここに出雲神社が入るかどうかは分からない」とした。半沢氏のフィールドワーク地図に、このことにかかわる以下のメモを見つけた。
大正13年
出雲・熊野・天神・香取・稲荷を合祠
 出雲神社も入っているらしい。その旧地はここかもしれないし、吉次の石宮かもしれないなどと想像は膨らむが、分からない。

# by shingen1948 | 2012-01-30 07:30 | ◎ 奥州街道 | Trackback | Comments(0)

奥州街道清水宿⑥~石那坂との交差点から②

 散歩のために清水町宿についての資料を見たいと思うと、とりあえず行政区の単位を頭に置いて探す。この清水町宿は、現在蓬莱地区の西端に位置することになり、その少し前の時代は、杉妻地区の南の端に位置し、更にその前が、田沢地区の西側というイメージだろうか。いずれも、その西側が境界線となる。
 確かに、地形的に南側から張り出した舌状に張り出した丘陵によって遮断される。現在は、国道4号線バイパスによって、更に西側との交流は見えにくい。

 それでも、「奥州街道清水宿略図」には、2本の石那坂へのつながりが表記されている。
 
 石那坂から坂道を登ってくると、奥州街道と交わる付近の左側に熊野神社が建つ。
 その熊野神社から眺めると、国道4号線バイパスに沿って、西裏通りに相当する道筋が走る。その道筋から国道4号線バイパスを跨ぎ越し石那坂へ抜ける道筋は橋梁によっても確保されていることが分かる。



 一つは、石那坂へのつながりの深さが見える風景に見える。もう一つは、この国道4号線バイパスの建設では、地元民の意識との共存を考えたことを表す風景とも見える。
 それは、今回の震災で感じた、国の東京で考え、東京の価値観の中で思考を整理した対策を地元に伝えるという姿勢との対比だ。
 この道筋は、地元の方々の生活路というイメージだ。国道4号線バイパスの効率性と地元の生活との調和を図った風景と見えてくる。

 その石那坂のイメージだが、これが曖昧だ。同じ「石那坂」という言葉でも、石那坂村、石那坂トンネル、石那坂の戦いという時に微妙な違いがある。
 地図上の石那坂は、共楽公園のある丘陵の西側にプロットされ、東北本線石那坂トンネルは、その南西のその丘陵の際にある。

 これらは、明治の時代に、現在は古墳とされる位置が石那坂の戦いの本陣とされたことにかかわるのだろうか。
 先に整理した小林氏は、石那坂の戦いにかかわる石那坂を、東山道が北側へ下る道と想定する。

# by shingen1948 | 2012-01-29 05:38 | ◎ 奥州街道 | Trackback | Comments(0)

奥州街道清水宿⑤~石那坂の道筋と交わる付近から

 共楽公園への登り口に案内板が建つ案内板には、旧奥州道(陸羽街道)として清水町仲興寺前まで通じると案内する。
 ここは、その共楽公園への道筋で歩いた道筋と重なる。
 その中で、清水町の旅籠仙台屋について、「共楽公園への道筋⑦~根子町人形と仙台屋」としてふれた記事に誤りがある。
 奥州街道清水宿略図と照らし合わせてみると、仙台屋らしいとした位置は、「穀や」あるいは「かみや」さん付近のようなのだ。

 この写真は、石那坂からの道筋と奥州街道が交わる地点から清水宿を見ている。
 消火栓が見えるが、これが奥州街道清水宿略図にある消井戸と重なると思っている。
 従って、新しい蔵造り付近が、扇屋(問屋)さん付近だと思う。その奥に写るのが、先に仙台屋さんらしいとした「穀や」あるいは「かみや」さん付近だと思う。

 情報の多くが、そのように解説することで、鵜呑みにしてしまった。みんながそういうものだからという言い訳でしかない。
 皆をそういう導いたと思われる権威のありそうな資料がみつかった。
 「奥州街道『歴史探訪全宿場ガイド』<無明舎出版遍>」だ。
 「(江戸側から向かって)左手にかつての仙台屋という旅籠があった」として、奥州街道清水宿略図で、「穀や」あるいは「かみや」とする付近の土壁の建物を写真で紹介し、今もその面影が残ると結んでいる。

 権威に立ちむかつもりはなく、一応、こちらを誤りとしておくのは、奥州街道清水宿略図とのかかわりとしておく。現在の地図でも仙台屋さんはプロットされていること、その位置は、奥州街道清水宿略図に示される位置と重なることも、その理由に挙げておく。更に、道筋から、ちょっと覗かせていただいたら個人名と共に、仙台屋の郵便受けがあったことで、理由づけを補強しておく。

 「根っ子町人形」にかかわる「旅籠仙台屋」さんは、こちらだと思う。個人宅のようだが、地図上にも郵便受けにも仙台屋を公表していることで、写真を掲げさせていただいた。
 なお、明治9年の明治天皇がこの旅籠で小休止なされて、野立ての場所に移動された情報や、ここに根子町土人形の型が多数現存する主旨の情報も見たが、確認はしていない。

# by shingen1948 | 2012-01-28 06:00 | ◎ 奥州街道 | Trackback | Comments(0)

奥州街道清水宿④~街並み想像

 「奥州街道清水宿略図」をもとに、勝手に想像を膨らませてみる。
 まず、略図にある屋号を持つ家が、現在の地図のどのあたりか見当をつけて、配置してみた。それから、その中の商売と結びつきそうな屋号をピックアップしてプロットしてみたのが、この図だ。

 この中の「茶屋」、「十手持」、「本陣」、「元名主」は、略図に明記されているので、ほぼ間違いないと思う。その他は、屋号からの想像でしかない。
 なお、藤清水脇の「米沢屋」さんは「茶屋」であり、「法院様」は寺関係だろうと想像する。また、「十手持」の斜め向かいの「吉野屋」さんは、窯元らしいが、陶器の窯でいいのだろうか。

 これも勝手な想像でしかないが、確認していく中で、新しい店は南に延びてきたのではないかというような印象を受けた。そういう見方で見ていると、奥州街道が、曲がって、石那坂の道筋とつながる地点までは、元々が近隣の村々を結ぶ主要な地点だったのではないかと思えてくる。特に、石那坂を中心とした平田の村と田沢の村を結ぶ要の位置だったように思う。それで、商売が想像できた訳ではないが、「旧角屋」さんも加えてみた。主要な角だったと勝手な思い込みなのかもしれないが、……。
 そうすると、根子町から清水町への変遷についても、自然な形で納得できそうな気分にはなる。この付近が松林であったことを想像すれば、根子町の名称の由来となった苦労話は、当然清水町建設の際にもあった苦労話で矛盾はないと思う。

# by shingen1948 | 2012-01-27 05:13 | ◎ 奥州街道 | Trackback | Comments(0)

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