地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
 今回行き止まったのは、その「中沢渠」が「浅川」に流れ込む地点にかかる橋の上ということだ。
 「浅川」は、ここから東進して阿武隈川に注いでいるはずだ。
 その「浅川」が阿武隈川に注ぎ込んだ辺りから下流が「阿武隈峡」として福島県指定名勝及び天然記念物として指定されているようだ。
 その案内板は、前回「村上山」でないのかなととした眼前の高まりの上部にある。
a0087378_9163995.jpg この地点は、古浅川地域にとっての原風景としては羽山に相当するのだろうと思う。というのは、近くに羽山神社が鎮座するのだ。
 その羽山の峰沿いにこちらに下って来る地点にその案内板は建ち、その風景については、次のように解説される。
 「栃木との県境、甲子山中を水源とし、宮城県荒浜を河口とする阿武隈川は、この地域の花崗岩の岩盤を長年にわたって浸食作用を続け、特異な峡谷をつくりあげた。この全国でもまれな風景の峡谷を「阿武隈峡」といい、約4㎞の区域を福島県の名勝及び天然記念物に指定している。
(中略)
 「阿武隈峡」は甌穴(急流の河床の岩石面に生じる鍋状の穴)の数が多いこと、転石の雄大な事において特異な地位をしめ、蛇骨岩・蓬莱岩・体内くぐり・地獄釜・鮎滝などは、その代表的なものである。
 鮎滝は遡上する鮎の群が急湍<きゅうたん>(流れの速い浅瀬)を飛び越える景観によって付けられた名である。
 (この付近はマムシの棲息地との注意書きが付記される)」

 案内される道筋は、最初の分岐点から左側に下りていくように案内されるのだが、そこを真っ直ぐ下って来るとこの地点に着くという位置関係だ。
 つまり、「示現(慈現)太郎神社」が建つ位置からは「阿武隈峡」の風景は直接的に見ることはできないのだが、そんな原風景も包み込んでいるということだ。
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# by shingen1948 | 2017-09-25 09:18 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 方向音痴であり、しかもいろいろなところからここに辿り着く道筋を確かめた事もあって、辿り着いたこの位置を確認しないと立ち位置が安定しない。
 「ここはどこ?」ということだ。

 確実な事は、ここは北進してきた「浅川」が東に回り込む地点であるということだ。「浅川」は、ここから東進し阿武隈川に注いでいるはずだ。
 ここには、北から流れてくる渠の水が、その東に回り込む「浅川」に注いでいる。

 いろいろ確認して分かったのが、この渠が「中沢渠」らしいということだ。
 そして、今回行き止まった地点は、その「中沢渠」が「浅川」に流れ込む地点にかかる橋の上ということだ。
a0087378_1022590.jpg これは福島県立医科大学の光が丘の東側の溜池の一つだが、福島県立医科大学の光が丘の北側の窪地からこの辺りにかけて沢山の溜池がある。この溜池群がこの「中沢渠」の水源地になっているようだ。

 「信達二郡村誌」浅川村の川の項には、この「中沢渠」について次のように紹介されている。
 「中沢渠:東部道坂に起こり(沢水を源とす)東南流し壷根淵に至って浅川に入る。長15町7間、巾4尺、田7町2段13歩に漑く」

 「東部道坂に起こり」とのことであり、地図上からも写真のような沢水を源とした溜池群がこの渠の水源地なのだろうと思われる。

 「信達二郡村誌」浅川村の川の項から「浅川」のこの地点の紹介部を確認すると「東流し村上山の南麓に至り逢隈川に注ぐ」とある。
 「地図で確認する限りでは、眼前の高まりは福島県立医科大学の光が丘の高まりと「中沢渠」の流れる窪地を挟んで対峙する蓬莱団地側の高まりが舌状に延びている地形にしか見えないが、「村上山の南麓に至り逢隈川に注ぐ」とのことなので、この高まりを「村上山」とみているのだろうと想像する。
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# by shingen1948 | 2017-09-24 10:23 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 柳田国男の世界にふれようとして示現(慈現)太郎神社を訪ねた。
a0087378_1032396.jpg どうにか見つけた示現(慈現)太郎神社へ続く道筋だったが、御覧の通り、残念ながら最終的に断念せざるを得なかった。
 この道筋の先が、示現(慈現)太郎神社が鎮座する浅川字壷根沢なのだと思う。その雰囲気は、周りの風景からも感じることができる。

 「松川の今昔」によると、浅川最古の神社と伝えられ、祭神は事代命で、天安2年(858)寅三月、下野国(現栃木県)二荒神社に飛び移ったとされるとのことだ。
 ここは、古浅川村の草分け在家の一つ浅川屋敷の近くというのも一つの見え方のようだ。
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# by shingen1948 | 2017-09-23 10:33 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 【会津のわだつみ「長谷川信」氏にかかわる情報を得ているサイト】として、「Web東京荏原都市物語資料館」のページをリンクさせていただく。
 メモ帳のページは、今は簡素化されたようだが、最初の頃はちょっと面倒だった。その頃のやり方を踏まえたままなので、ここに一度下書きして、それをメモ帳のページに張り付ける。
 〇 < Web東京荏原都市物語資料館

 「会津の「わたつみ」にかかわる資料について②」に掲げた信氏の所属する「と号第三十一飛行隊隊」の概要と「Web東京荏原都市物語資料館」のページからの情報を照らし合わせると、次のような状況が分かる。

 この隊の7名が特攻戦死だ。
 長谷部伍長以外の出撃基地は、台湾八塊飛行場とのことだ。長谷部伍長は、誠隊から振武隊に転属して、知覧から特攻出撃しているのだということだ。
 この隊では、長谷川中尉をはじめ4名が戦死扱いになっている。
 長谷川中尉、西尾軍曹、海老根伍長は、台湾へ前進中、与那国島で敵機に撃墜されたためだとのこと。
 飯沼伍長も戦死だが、こちらは少し事情が違うようだ。こちらは、特攻出撃はしたのだが、戦果が確認できなかったために戦死扱いになったとのことだ。

 会津の資料では明らかにならなかったこの隊の飛行コースだが、新京から松本へは、新京一平壌、大邱を経て、大刀洗飛行場→各務原→松本のコース。
 松本から台湾へ向かうのは、松本一各務原→松山→健軍→新田原→済州島→上海(大場鎮)→ 杭州(筧橋)→台湾八塊のコース。                          

 この隊は、浅間温泉の富貴の湯で東大原国民学校学童疎開児187名と出会う。
 「忘れられた特攻隊: 信州松本から宮崎新田原出撃を追って」は、これを糸口にして集められた情報をもとにして紡まれた物語なのだろうと想像している。
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# by shingen1948 | 2017-09-20 11:58 | ブロクとわたし | Comments(0)